『九月の雨 』 |
コトコトと音を立てる列車に乗って、仙石は長い時間を掛けて、行の元へとやってくる。運良く座れれば、眠ってしまうこともしばしばだった。それがボックス席なら、買ってきたビールをちょいと引っ掛けてしまうこともある。 何にせよ、仙石はこの時間が嫌いではないのだ。 もちろん行が近くに住んでいたら、もっと頻繁に会えるのに、とは思う。一刻も早く会いたくて、居ても立ってもいられないような時は、この距離がどうにも焦れったくなることもある。 それでも、こうしている一分一秒が、愛しい恋人へと近付く時間なのだと思えば、離れていることすら嬉しく思えるくらいだった。はるばるやってきた家では、いつでも行が待ってくれているとなれば尚更だ。 ふんふふーん、と調子外れの鼻歌を歌いながら、仙石は行の家のドアベルを鳴らした。一度や二度では出てこないことは承知の上なので、何度でも根気よく鳴らし続ける。 しかし、今日はいつまで経っても、行が出てくる気配すらないことに、さすがの仙石もいぶかしく思い始めた。 そもそも、ここにやって来ることは、行には何も言っていない。それでも、これまではいつも行は家にいたし、電話を掛けても留守電になっているだけだから、あまり意味がないのだ。もちろん留守電の返事をもらったことは一度もない。 だから仙石にとっては、行に会いたいと思った時が、会える時だったし、それを疑うことすらしなかったのだけれど。 「何だよ、あいつ居ねぇのか? まぁ、そのうちに帰って来るだろ」 行がどこかに出掛けることはあるかもしれないが、外泊することは無いと固く信じている仙石である。しばらく玄関の前で待たせてもらうことにした。 今が冬ならば、床のコンクリートは冷えて座ることも出来ないだろうが、幸いにして、まだ残暑が厳しいくらいの陽気なので、ここに数時間いたとしても、それほど気にならない。それに暑さには強い性質だった。 仙石はドアの前にどっかりと腰を下ろすと、持っていたビールを開けることにした。酒の肴をつまみながらチビチビやっていれば、時間はあっという間に過ぎることだろう。 近所の者に見られたら、明らかな不審者ではあるが、この家は前を通るものすら、ほとんど存在しない。せいぜい郵便屋くらいのものだ。 そんな訳で、さっそく一人で酒盛りを始めてしまった仙石だが、そうこうしているうちに、ぽつぽつと雨が落ちてくる。 しかもその雨は、秋雨などという可愛らしいものではなく、あっという間にスコールといった方が正しいような豪雨に変わっていった。 「あちゃー、雨かよ。あいつ、傘持ってんのか?」 そういう仙石も傘など持って歩いてはいないが、どこのコンビニでも買えるから、それほど気にしていない。家に安っぽいビニール傘が溜まってしまうのが不満なだけだ。 しかし、行はどうだろうか。 いつでも合理的かつ沈着冷静なようでいて、ごく普通の人間が当たり前に出来ることが、まるで出来なかったりするのだ。もしかしたら、傘を買うということにすら思い至らない可能性もある。 「どこに居るか分かれば、迎えに行ってやれるのになぁ」 仙石はとりあえず電話を掛けてみたが、やはり留守電のままだった。メッセージを入れておいたものの、行がそれを聞く可能性は低いだろう。 せめて、どこかで雨が止むまで待つ、というくらいの機転が利けば良いのだが、あの行ではそれすら怪しい。 仙石はにわかに不安になった。 のんびりとビールを呑むどころか、落ち着いて座ってもいられない。玄関前の雨に濡れない狭い場所を、うろうろと熊のように歩き回る。 「あの馬鹿、何やってんだ。さっさと帰って来い。いや、駄目だ。帰って来るな。どこかで雨宿りしてろ。それか傘を買え」 強く念じれば、思いは行に届くのでは、というかのように、仙石はブツブツとつぶやき続けた。 しかし残念ながら、その願いは天に届かなかったようだ。 「……仙石さん?」 静かな行の声が、降りしきる雨の向こうから聞こえてくる。仙石には、滝のように落ちる雨粒しか眼に入らないというのに。その中に行がいるなどということは、考えたくもなかった。 「行!?」 仙石が屋根の下から飛び出すよりも早く、行が姿を現した。もちろん傘を差してはいない。頭のてっぺんから足の先まで、ずぶ濡れだった。 仙石は慌てて行の身体を引き寄せて、屋根の下へ入れてやる。それでも行は、気の抜けたような表情を浮かべながら、ぼんやりとするばかりだ。 「お前、熱でもあるんじゃないのか…?」 そっと行のひたいに伸ばそうとした仙石の手は、さりげなく、だが確実に拒絶の意志を持った仕草で振り払われる。仙石は眉をひそめた。 行の言動が普通ではないことは、これまでにもいくらでもあったから、雨に濡れているくらいでは、今更驚きはしないけれど、だからと言って、そのまま放置出来ることでもない。 「ほら、早く鍵開けろ」 そう言いながら仙石は、行の身体を拭いてやれるタオルか何かがないかと探してみるが、残念ながらハンカチ一枚ありはしない。 舌打ちをしながら行を見れば、鍵が見つからないのか、まだもたもたとポケットを探っていた。その姿には何の危機感も感じられない。普通ならば、一刻も早く家の中に入りたいと思うだろうに。 だが、行がのんびりと鍵を探している間も、髪から雨のしずくが滴って、白い頬を濡らしていく。普段からあまり血色の良くない肌が、ますます青褪めていた。 それが痛々しくて、見ていられなくて、仙石は最後の手段に出ることにした。 着ていたシャツをおもむろに脱ぎ捨てると、行の頭からすっぽりとかぶせて、しずくを拭き取ってやる。手近に乾いた布が他にないのだから仕方がない。 「汗臭いかもしれねえが、我慢しろよ」 そう言うと、行はこくりとうなずいた。今度はやけに素直だ。荒っぽい仙石の手でわしわしと髪を拭かれながら、大人しくしている。 と、ふいに行がつぶやいた。 「あんたが来るって分かってたら、外になんか出なかったのに」 「ああ、悪かった。今度からはちゃんと連絡してくるよ」 「……別に、そういう意味じゃない」 「そうか。ごめんな」 仙石は何気ない口調で返したのだが、何故かいきなり行は声を荒げて怒鳴った。 「そうだよ。全部あんたのせいなんだ! あんたのせいでオレは雨に濡れてるんだ!」 「だから、悪かったって。電話すれば良いんだろ?」 「そうじゃない! そんなことじゃない…ッ!」 行がどうして、何に対して怒っているのか、仙石にはさっぱり分からない。少なくとも、連絡もせずにやってきたこと、ではないらしいけれど。 「何でそんなに怒ってんだよ。俺が何かしたか…?」 これ以上刺激しないように、そっと尋ねると、行はぼそりとつぶやく。 「……あんたが来ないから」 「え?」 仙石は思わず聞き返した。行はまだ仙石の服を頭からかぶったままだから、小さな声で話されても、こちらには良く聞き取れないのだ。 すると行はまたも怒鳴った。 「あんたがずっと来ないからだろ! オレは毎日あんたが来るのを待っていて、なんか訳が分からなくなって、とにかく外に飛び出したら雨が降ってきて。雨に打たれたら、少しは頭が冷えるかなって思ったけど、やっぱり駄目で、戻ってきたらあんたが居て。オレはもうどうして良いか分からないんだ……ッ!」 まるで火山が噴火するかのように、それだけの台詞を一気にまくしたてると、行はいつの間にか持っていた鍵でドアを開けて、自分だけが中に入り、そのまま扉を閉めてしまった。 ドアの前で一人取り残された仙石は茫然と立ちつくす。 「何だ、あいつ……」 行の話は支離滅裂で、どうして外に出たのか、どうして雨が降っているのに傘も差さずに歩いていたのか、ということへの答えには全くなっていなかったが、それでも仙石には一つだけ分かったことがある。 ……そんなに俺を待っていてくれたのか。 行は会いたいとか、会えて嬉しいとか、待っていたとか、決して自分からは何も言わないから、行も同じように会いたいと思ってくれていたなんて、仙石には思いも寄らないことだった。 飛び上がりたくなるほどに嬉しくて、仙石はさっそくドアノブに手を掛ける。 が、力一杯引いてもびくともしない。事もあろうに、行は仙石を外に放り出したまま、鍵を掛けてしまったらしかった。 「おい、行。ここを開けろ。俺は鍵持ってねえんだぞ!」 ドンドンとドアを叩いてはみたものの、一向に開く気配はない。仙石は途方に暮れた。 しかも先刻、行にシャツを貸してしまったから、下着一枚の姿である。それほど寒くはないので、風邪を引くことはないとしても、誰かに見られたら、通報されても文句は言えない状況だ。 「なぁ、行。頼むから開けてくれよ」 仙石は根気良くドアを叩いた。単なる勘に過ぎなかったが、きっと行はドアのすぐ向こうにいるはずだと思っていたからだ。 仙石の言葉に対する行の応えはなく、ドアも開くことはないけれど、仙石は訴え続ける。 「俺が悪かったよ。二週間も来られなかったからな。壁画の仕事があったんだよ。でもしばらくは暇だから、すぐに会いに来られる。お前がもう来るなって言うくらいに、毎日だって来てやるよ。だから、これ以上ヘソ曲げんな」 すると、カチャリと鍵を外す音がして、行がおずおずと顔を出した。かぶったままの仙石の服の下から覗く黒い瞳が何とも愛らしい。 仙石がホッとして見つめていると、行はぼそりとつぶやく。 「ほんと?」 「ああ、本当だ。約束する。今度はいっぱい会いにくる。お前が待ちくたびれる前にな」 「それなら良い」 そっけない口調で答えると、くるりと背中を向けてしまう行に苦笑をしながら、仙石は慌てて家の中に入る。 そして、意地っ張りの可愛い恋人を、後ろからぎゅっと抱きしめるのだった……。 おわり |
ここまで読んでくださってありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。 イメージとしては、再会後の最初の九月です。 まだ二人とも初々しい感じで。 もっとラブラブイチャイチャさせろ、と言われそうですが。 というか、そんな時期の話を、 私はいったいどれだけ書いているのでしょうか(笑)。 二人が些細なことですれ違ったり、 お互いの理解が足りなくて行き違いがあったりして、 微妙に噛み合わないような感じが好きなんですね。 だからつい、このくらいの時期の話ばかりに…。 と言いつつも、私が今回書きたかった場面は、 ラスト1/3くらいだったり。 つまりは前半の2/3は必要ないということで。 でもダラダラと書いてしまうのも、いつものことです(苦笑)。 2007.12.07 |