【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『 お気に召すまま 』



「……ん……」
 行がぼんやりと目を覚ますと、どこからか人の声がしていた。もちろんこの家に今いるのは、自分と仙石だけだから、話しているのは仙石に違いない。
 と、そこまでは分かったけれど、寝起きなので頭が全く働かない。深い海の底でたゆたっているかのように、仙石の声は遠く、覚醒までの道のりもまた遠かった。

 目を開けようとしても、身動き一つ出来ない。
 頭の片隅では、起きろ起きろと命令しているのに、身体が勝手に睡眠を要求し、眠りの海の中に引き戻してしまう。
 こうして戦っているうちに、いつもならば、また眠ってしまうのが常なのだけれど。


「……見合い?」
 ふいに飛び出した仙石の言葉に、行の意識は瞬時に覚醒した。それでも微動だにすることなく、耳だけを仙石の会話の方に向ける。
「そりゃちょっと早すぎねえか、兄貴。あ? まぁ確かにそうかもしれねえが。いや、でもなぁ……」
 どうやら仙石は兄と電話で話をしているようだった。電話の向こうでは、何と言っているのか分からないので、仙石の言葉から推測するしか無いのだが。

(……見合いって聞こえたよな)
 息を詰めて聞き耳を立てながら、行は考えを巡らせる。
 もしかしたら聞き間違いかもしれない。『試合』とか『悲哀』とか、似たような響きの言葉はたくさんあるだろう。
 だが、それでも仙石に見合いの話が来る、というのは、決してあり得ないことでは無いのだ。

 仙石が行と恋人関係になった時に、すでに疎遠になっていた前妻と正式に離婚したのだと教えてくれた。
 だから何も心配することはない。二人でこれからは幸せになろう、と。まるでプロポーズのような言葉と共に。
 それを行は信じていた。
 仙石が自分に嘘を吐くはずがない。仙石が自分を裏切るはずがない。だからひたすら仙石を信じて、この家で待っていれば良い。


 そう思っているからこそ、行は精神の安定が保てる。
 仙石に会いたいという気持ちも、仙石と離れたくないという想いも、胸の奥で静かに眠らせて、絵を描くことだけに集中出来る。
 行の全ては仙石を中心に回っているのだ。
 ……たとえ仙石が傍に居なくても。

 だが、それは行にとっての都合だ。
 すでに離婚した仙石は、世間的には一人寂しく兄の家に居候をしている独身男、ということになるのだろうし、見合いや再婚の話があっても少しもおかしくない。
(オレは結婚出来ないもんな……)
 どれほどに行が仙石を愛していても、一般的な結婚という形では結ばれることは無いのだから、もしも仙石がそれを望んだとしたら、行は引き下がるより他になかった。

 行は無言のままに唇を噛みしめる。
 仙石の電話は続いていた。
 口調や声の響きから、仙石が困っているらしいことが伝わってくる。どうやら兄にかなり強く押し切られているのだろう。普段から色々と世話になっている身としては、逆らえないのかもしれない。
 それでも行は信じていた。仙石は見合いなどしない。自分を捨てたりしないと。


 しかし、苦々しげにつぶやかれた仙石の言葉が、行を思いっきり打ちのめした。
「……分かった、分かったよ。行けば良いんだろ。で、どこだって?……ふんふん」
 仙石は場所や時間を聞いていたようだが、手元にメモが無いことに気付いたらしく、電話をしながら部屋を出て行った。
 バタン、と寝室のドアの閉まる音だけが虚しく響く。

「……嘘だ」
 一人になった行は、無意識のうちにつぶやいていた。
 たかが見合いじゃないか。再婚すると決まった訳じゃない。それほど気にすることでもないだろう。きっと義理で断れなかっただけだ。
 大丈夫、大丈夫、大丈夫。
 心の中で必死にそう言い聞かせても、不安は消えてくれない。ふいに寒気が襲ってきて、行は布団の中でがたがたと震えた。窓の向こうからは、うららかな春の陽射しが降りそそいでいたけれど。

(どうしよう。どうしたら良いんだろう……)
 こんな時にどうすれば良いか、誰も教えてくれなかった。ごく普通に生きるためには全く必要の無い知識ばかりを詰め込まれた頭と心は、こういう場合は何の役にも立たないのだから。
 どうしたら良いのか分からなくて、それでもただじっと寝転がっていることも出来なくて、行は慌てて布団を跳ね飛ばし、ベッドから起き上がった。
 いや、そのつもりだったのだが。


「ぅわあ……っ」
 足に毛布が絡みついて立ち上がることが出来ず、行は勢い良くベッドから転げ落ちてしまった。身体が反射的に動いて、受け身の体勢を取ってくれたので、怪我をすることはなかったけれど、無様な姿であることには変わりない。
 毛布でぐるぐる巻きの芋虫のようになりながら、行は茫然としていた。
 自分にいったい何が起こったのか、すぐに判断出来なかった。工作員を引退して数年が経つとはいえ、いくら何でもこんなに鈍ってしまうものだろうか。

 あまりにも情けなくて、悔しくて涙が出そうだった。こんなみっともない姿は仙石にだけは見せたくない、そう思うのに。
 不幸にして電話は終わってしまったらしく、寝室のドアが荒っぽく開いて、仙石が慌てて駆け込んできた。
「おい、どうした。大丈夫か」

 すると、仙石はひどく心配そうな声を掛けながら、行の元までやって来て、おもむろに吹き出した。最悪である。
「わはは、寝ぼけたのか? まぁ、せっかく起きたなら飯にしようぜ」
 行はそれには無言でふくれっ面をするだけだ。ここで自分もあははと笑って、仙石と一緒に朝食にしたら、全てがうやむやになってしまう気がした。

(考えろ、考えるんだ)
 行は必死に考えを巡らせる。仙石の見合いを止めることは出来ない。自分にはその権利はない。
 だが、仙石を失いたくない。他の誰にも渡したくない。
 それならば、仙石の方が自分から離れないようにすれば良い。行の元へ居たいと思うようになってくれれば良いのだ。
(……ということは)


「仙石さん、ビール呑むか?」
 仙石は酒好きだ。ならば酒を与えておけば良い。そんな行の単純明快な発想は、仙石にすぐに却下された。
「いきなり何言ってんだ、お前。いくら俺でも朝からビールなんて呑まねえよ」
「そうか……、そうだよな」
 仙石にしてみれば当たり前のことかもしれないが、行は酒を楽しむ嗜好がないので、いつどんな時に飲みたくなるか、なんてことは分からなかった。だから仙石が呑まないと言うのなら、それで納得するしかない。

「えっと、オムライス……」
 他に仙石の好きな物といって思い付いたのは、これだけだった。仙石は苦笑を浮かべる。
「悪いな。残念ながら、今朝はベーコンエッグだ。昼飯にでも作ってやるよ」
「……うん、ありがとう」
 そう言われては、行はうなずくより他にない。そもそも仙石が作るのでは、あまり意味がないのではないだろうか。

 やはり行自身が、仙石を喜ばせるためにしてやれることを考えなくては。
(仙石さんが喜ぶことって……)
 行は必死に考えたが、結局浮かんだのは、たった一つだけだった。
 だが、それを実行するのは、行にとってはとても難しい。というよりは、恥ずかしい。自分からそんなことを仙石にする、と考えるだけで、顔から火が出そうだった。


(でも、やらなくちゃ)
 行は意を決して立ち上がった。
 そして両手を伸ばして、仙石の頬を挟み込むようにして押さえると、そのまま自分から顔を近付けていく。仙石とは身長差があるので、行はほんの少し背伸びをした。白いかかとが可愛らしく持ち上がる。
「仙石さん……」

「……痛てぇ」
 ごつん、という鈍い音と共に、仙石が呻き声を上げた。行はすぐに失敗を悟るが、もう後の祭だった。
「ったく、お前なぁ。朝から俺に頭突きをかますとは、良い度胸じゃねえか。寝ぼけてるにも程があるぞ。さっきから何やってんだ」
「ち……、違う」

 もちろん行は仙石に頭突きをしたかった訳ではない。自分のイメージでは、もっと甘い恋人らしい展開になるはずだったのに。まるでプロレス大会の開催だ。
 行はがっくりと肩を落とした。
 仙石を喜ばせることすら満足に出来ないなんて、これでは恋人失格ではないか。捨てられても仕方がない。

 すると、ふいに仙石に抱きしめられた。
 まるで行を慰めるかのように、右手では優しく髪を撫で、左手は背中をポンポンと叩き、ひたいや頬に軽いキスの何度も落としながら、仙石は行の耳元でささやく。
「どうした、ん? 何かあったのか? どうせまたお前のことだから、要らねえことでウジウジ悩んでるんだろ。話してみろよ。俺でも少しくらいは力になれるぞ」


「仙石さん……、どうして?」
 行は驚いた。仙石は自分が悩んでいることなど、お見通しだったのだ。これが人生経験の差なのだろうか。
「お前の様子がおかしいのは、いつも悩んでいる時だろ。で?何だって?」
 仙石は行の髪を撫でながら、包容力にあふれた笑みを浮かべる。こんな風に言われたら、誰だって悩みを打ち明けてしまうに違いない。
 ただ、それでも行はためらった。

 しかし、その理由も仙石は言い当てる。
「……俺のことか?」
 こうなっては、行もうなずくしかなかった。そしてぼそりと付け加える。
「見合いするって……」
「ああ、見合いか? さては俺の電話聞いてたな。そうなんだよな。面倒だけど仕方がねえだろ。兄貴には世話になってるしな」
 驚くことに、仙石はあっけらかんと笑っている。

 行には信じられなかった。こんなに簡単に認めてしまうなんて思わなかった。つまり仙石にとっては、その程度のことだというのだろうか。
「見合い、するの……?」
 茫然とつぶやく行に対して、仙石はやはりしれっと答えた。
「まぁ、兄貴が決めたことだからな」
「そっか……」
 行はもう何も言えなかった。


 そこへ、いきなり仙石が大声を上げる。
「おい、待て待て、ちょっと待てよ。もしかしてお前、勘違いしてねえか? 見合いするのは俺じゃねえぞ」
「え……?」
 行はきょとんとする。
「見合いって単語だけで思い込んじまったんだろ。俺は付き添いで行くだけだよ。メリーがすっかり俺に懐いちまっていてな」

「めりー?」
 何が何やらさっぱり分からなくて、オウム返しにする行に、仙石は苦笑を浮かべた。
「兄貴の飼ってる犬だよ。兄貴も義姉さんも忙しいから、どうしても俺が面倒をみることが多くてな。見合いにも付いて来てくれって頼まれたんだ。俺は犬に見合いなんて必要ねえと思うんだけどなぁ。兄貴の奴、自分に子供がいない分、娘みたいに思ってんだよな、メリーのことを」

「そうだったのか……」
 行は心の底から安堵した。こんなことなら最初から、見合いについて直接聞いてしまえば良かったのに、ずいぶん回り道をした気がする。
 すると仙石は、行に向かってニヤリと笑った。
「ホッとしたか?」
「え?」


「俺が見合いすると思って、機嫌を取ろうとしたんだろ。いきなりビール呑めなんて言い出すから、何事かと思ったけどよ」
「ベ、別にそんなんじゃ……」
「あれも頭突きじゃなかったんだよな? いったい俺に何をしてくれようとしたのかなー、行たんは」
 仙石はくつくつと笑っている。そこで行は容赦なく一発お見舞いすることにした。

「行たん言うな」
 照れ隠しにしては、かなり重量のあるパンチを食らって、仙石は苦悶の声を上げていたが、それも落ち着いたのか、また行の身体をぎゅっと抱きしめた。
 そして、そっとささやく。
「見合いなんて絶対にしねえよ。……俺にはお前が居るからな」
「うん、ありがと……、仙石さん」

 行も今度は素直に返事をすることが出来た。仙石は行が一番欲しいと思っている言葉をくれたから。
 喜びに満たされた行が顔を上げると、仙石の熱っぽいまなざしと出会った。その視線に焼き尽くされそうで、行は黙って目を閉じる。
 すぐに仙石の唇が行のそれと重なった。先刻は失敗してしまったが、今度はもちろん何の問題も発生せずに、二人は甘い口付けを交わし続けるのだった……。

   
             おわり



ここまで読んでくださってありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。

この話を途中までぼんやりと書いていたら、
何故かものすごいウツ展開になってしまい、
これじゃ「あんたを殺してオレも死ぬ!!」
っていうオチしかないよ…、という感じでした(笑)。

でも私が書こうと思っていたのは、
勘違いをした行たんがけなげに仙石さんに尽くす話、
だったので、全然違う!むしろ真逆!という訳で、
ウツ部分をボツにしたら、今度はやたらとコメディに。
極端すぎるよ(苦笑)。
序盤にちょっとウツ部分の名残がありますけども。

本当は行たんが仙石さんにエッチなご奉仕をする、
という展開も考えてはいたのですが、
すっかりコメディタッチになったので、
そこもボツとなってしまいました。
果たしてこれで良かったのかどうか。
明らかに間違えたような気もしないでもない…。

ついでに、お兄さんの所に子供がいたかどうか、
さっぱり記憶になくて、うろ覚えで書きました。
もしもそんな描写があったら教えてください。
ちょろっと書きなおしますんで(苦笑)。

2009.07.01

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