『戦士の休息』 |
ピンポーン……。 オレはハッとして顔を上げた。仙石さんのベルの音だと思った。 それでもすぐに飛び出していかないのは、まだ確信が持てなかったからだ。いつもの仙石さんなら、しつこいくらいに何度も鳴らすのに、今日は弱々しい、たった一度のベルだけだから。 もしかしたら、オレの気のせいかもしれない。あまりに仙石さんに会いたくて、仙石さんに会いに来て欲しくて、幻聴を聞いてしまったのかもしれない。そんなことまで考えた。 それなのに、やっぱりオレはソファから立ち上がり、オレの足は勝手に玄関に向かう。ドアを開けて誰もいなかったら、がっかりするのは自分なのに。 確証も持てない、たった一度のベルにすがりつかずにはいられないほど、オレは仙石さんに会いたかった。 ドアの前に立っても、再びベルが鳴ることはない。仙石さんなら、もう5回や10回は鳴らしているはずだ。それでもオレは勇気を振り絞ってドアを開ける。……おずおずと。 ゆっくりとドアが開いていく軋んだ金属音が、オレの心の不安をそのまま奏でているようだった。 そしてようやく開いた扉の向こうには……、変わり果てた仙石さんの姿があった。 「仙石さんッ!」 ドアベルを鳴らしただけで力尽きたのか、玄関先にうずくまっている仙石さんの元に、オレは慌てて駆け寄る。何か発作でも起こしたのだろうか。只ならぬ仙石さんの様子に、オレも半分パニックになっていた。 昔覚えたことも、何もかも頭から吹っ飛んでしまい、ぐったりする仙石さんの肩をつかんでは、ぶんぶんと揺すった。冷静になれば、急病人にそんなことをしてはいけないことくらい分かりそうなものなのに。 「仙石さん、しっかりしろ。仙石さん……ッツ」 まるで、そうしていないと仙石さんが死んでしまうのではないか、というくらいに、オレは必死に仙石さんの身体を揺さぶり続け、ハッと我に返ったのは、仙石さんの口から低い呻き声が聞こえたからだった。 「……うう、止めろ。気持ち悪りぃ……」 「仙石さん、気が付いたか」 うっそりと顔を上げた仙石さんの顔を、慌てて覗き込んで、オレはようやく事態を悟った。 「……酒臭い」 何てことはない。酔っていたのだ、仙石さんは。盛大に酔っ払っていただけだ。正体をなくすほどに。 「こんな状態で、よくここまで来られたな……」 電車の中でのんびり呑んで来たのだろうか、と顔を上げれば、玄関前に見覚えのある車が停まっている。 「まさか、あんた運転してきたのか!?」 「ううー、あー」 オレの言葉にも、仙石さんは訳の分からない呻き声を上げるだけだ。オレは愕然とする。 ……馬鹿じゃないのか。こんな状態で運転してくるなんて、自殺行為だ。信じられない。どうかしているぞ。 オレは心の中でつぶやく。 もしも、これが原因で事故を起こして、死んだりなんかしたら、絶対に許さない所だ。無事にここまで辿り着いてくれたことを感謝するより他にない。 「とにかく中に入るぞ」 オレは仙石さんの身体を支えながら立たせると、引きずるようにして家の中に入った。 正体をなくしている仙石さんはとてつもなく重くて、リビングのソファに運び込むのが精一杯だった。 靴を脱がせていないことに気付き、慌てて脱がせてやったりしながらも、どうにかソファに大きな身体を横たえさせる。 靴を玄関に置きにいこうと立ち上がった所で、ぐいと服を後ろに引かれた。驚いて振り向くと、仙石さんがすがりつくような目で見つめている。 「……行、ここに居てくれ」 目が覚めた瞬間、オレがどこかに行こうとしているのを見て、不安になったのだろう。その感覚はオレにも分かる。 仙石さんは起こした身体を少しずらして、ソファにオレの座る場所を作ってくれたから、オレは素直にそこに座った。 するとおもむろに仙石さんはオレのひざの上に横たわる。これって、つまり『膝枕』ってことなのかな。 重いし、なんかくすぐったくて居心地が悪いと思いながらも、虚ろなまなざしでどこか遠くを見つめる仙石さんの表情を見ていたら、文句も言えなくなった。 ……ああ、弱っているんだな。 オレは唐突に気が付く。何かつらいことがあって、仙石さんはひどく傷ついて弱っているのだ。オレにすがらずにはいられないほどに。 そこへ、仙石さんがぼそりとつぶやく。 「……離婚したんだ」 「え……?」 驚くオレのことなど気にも留めずに、仙石さんは話し続ける。独白のように。 「こんな日が来ることは分かってた。ずっと別居状態で、気持ちも離れていて、元に戻ることなんて不可能だって分かってたんだ。それでもやっぱり堪らねえよ、これは」 「うん」 オレはうなずくことしか出来ない。 「あいつにも、今は他に大切な人間がいて、俺にだってお前がいて。お互い様なんだから、文句の言えた義理じゃねえってのも分かっているんだけどな。娘が二十歳になるまで……、なんて理由でずるずると先延ばしにしてきたのも、この日が来るのを認めたくなかったからかもしれねえ」 「……うん」 仙石さんは意外なくらいに呂律もしっかりしていて、オレが思ったほどには酔っていないようだった。もしかしたら身体は酔っていても、心までは酔えなかったのだろうか。オレは呑まないから分からないけれど。 「だけどな……」 「うん」 「あいつとこれまでずっと過ごしてきた20年間が、あんな紙っぺら一枚で、無かったことになっちまうのかと思うと、やりきれねえんだよ」 声を詰まらせながらそう言うと、仙石さんは右手で顔を隠した。オレの視線から逃げるかのように。武骨で大きな手のひらの下で、仙石さんが今どんな顔をしているのか、オレには見えない。 ……でも、分かる気がした。 オレは手を伸ばすと、仙石さんの髪をそっと撫でる。いつも仙石さんがオレにしてくれるよりは、もうちょっと優しく。仙石さんの堅くてごわごわした髪が、オレの指をちくりと指した。それでもオレは撫で続ける。 そうして、どのくらい時間が経ったのだろう。 オレはこんな時に、仙石さんに掛けてあげられる言葉を見つけられないから、仙石さんが口を開いてくれるまでは、二人の間には沈黙が続く。 やがて、仙石さんがつぶやいた。顔はまだ隠したままだ。 「……すまん」 「どうして?」 オレは静かに尋ねる。仙石さんがオレに謝る理由なんて無いのに。 だって、オレは嬉しいんだ。 傷ついて、弱って、どうしようもなくなって、ただお酒を呑むしか出来なくて、それでも酔えないような、そんな状態の時に、あんたがオレの元へ来てくれたことが、嬉しいんだ。オレを思い出してくれたことが嬉しいんだよ、仙石さん。 「……すまん」 仙石さんはもう一度つぶやいた。 「うん、分かった。もう良いよ」 オレはそう応えながら、顔を隠している仙石さんの右手の上に、オレの左手をそっと重ねた。仙石さんの手は、やっぱり温かかった。 それから、オレはただ仙石さんのぬくもりを感じていた。仙石さんもきっとオレのぬくもりを感じてくれていただろう。言葉じゃなく、触れ合うことで伝わるものがあるのだ、ということを、今はオレも知っている。 だから、こうしていることで、少しでも仙石さんが楽になってくれたら良い。オレの元へ来たことを、オレを選んでしまったことを後悔しないでくれたら、それで良い。 ……オレの想いが仙石さんに届きますように。 そんな願いを込めながら、オレはずっとずっと仙石さんの髪を撫で続けるのだった……。 おわり |
ここまで読んで下さってありがとうございましたm(_
_)m
どうにも辛気くさい話でスミマセン。 弱っている男が大好きなのです(笑)。 普段はそんなそぶりも見せない人が、 ちょっとした隙に見せる弱さ、というのがツボなのです。 という訳で、仙石さんを弱らせてみました(苦笑)。 でも、ちょっと言葉が足りなかったかな、と思っています。 いつもはうっとうしいくらいに書き込んでしまうので、 今回は行の一人称にして、仙石さんの説明を全く入れませんでした。 行間を読み取っていただければ良いな、と思うのですが。 と言いつつも、蛇足の補足。 仙石さんは別に奥さんに未練がある訳じゃありません。 ただ、情の深い人なので、関係を切り捨ててしまうことに、 ちょっと打ちのめされているだけなのです。 その後は親子三人で普通に会ったりすると思いますよ。 さっぱりとね。そんな感じ。 2006.10.10 |