【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『初めてのチュウ』

(1)

「行、好きだ…」
 仙石の言葉に、行はおずおずとうなずく。
 仙石も自分と同じ気持ちだったと知って、嬉しかった。言い知れないほどの幸福感で、行の胸の中が満たされていく。

 ……こんな悦びがあるのか。
 行は驚きを禁じ得なかった。
 仙石と再会してから、そして仙石への想いを自覚してから、行にとっては、初めて知る悩みと苦しみばかりの日々だったのだから。

 仙石の言動に一喜一憂させられたり、仙石の前では思いも寄らないことを言ってしまったり、気がつくと仙石のことばかりを考えてしまっていたり。
 まるで自分が別人になったような不安と、全てが思うようにならないもどかしさで、いっそのこと、仙石に会わない方が良いのではないか、とまで思い詰めたこともあった。


 しかし、それも今となっては笑い話だ。
 むしろ悩みや苦しみが深かった分だけ、得られた幸福も大きく感じられる。感激で、思わず泣いてしまいそうなほどだ。
「オレも、仙石さんが……」
 行は改めて、自分の想いを言葉にしようとした。

 気持ちは伝わっている筈だけれど。行の想いを全て受け止めた上での仙石の言葉だと思うけれど。
 ちゃんと言葉にしたかった。
 拙い台詞しか言えなくても、自分の口で仙石に『好きだ』と伝えたかった。
 ……その筈なのに。

 行は思わず口をつぐんだ。
 仙石がこちらを見つめるまなざしに、気おされてしまったのだ。
 それは、行が今まで見たことのない仙石の姿だった。
 元から仙石は、目が大きく眉が太いから、迫力のある強いまなざしを持っている。『目力』という言葉は仙石のためにあるのではないかと思うくらいに、仙石の視線には強い力がある。


 それでも、今日はいつもと全く違っていた。
 突き刺さるような視線は、行の表皮を容易く貫いて、誰にも見せたことの無い内側までをも、見透かしているかのようだった。
 途端に行は落ち着かない気分になる。居たたまれないとでも言うのだろうか。今すぐに、ここから逃げ出したいような気持ちだ。

 いや、実際に出来るなら、そうしていただろう。
 現実の行の身体は、まるでソファに縫い止められたように、欠片ほども動くことが出来なかった。
 そして、声も出なかった。
 呼吸をすることすら忘れて、金魚のように、ただ口をパクパクさせるのが精一杯だった。

 行は仙石が怖かった。
 こんな気持ちは初めてだった。
 仙石の何が怖いのか、どうしてこんなにも不安になるのか、理由は分からないけれど。


 だから、仙石の武骨な手が伸ばされて、今にも頬に触れようとしたその瞬間、行は自分でも驚くほどに過剰な反応をしてしまった。
 もしも鋭い爪があれば仙石を切り裂き、牙があれば噛み付いていただろう。
 まさに野生の獣のように、硬く身をこわばらせてしまった行に気付いたのか、仙石は慌てて手を引っ込めた。
 そして照れくさそうな苦笑を浮かべる。

「悪りぃ、驚かせちまったな」
 仙石の声には、明らかに傷付いたような響きがあった。
「ごめ……、そんなつもりじゃ……」
 ようやく出した声は、弱々しく掠れて情けなかったけれど、仙石は明るい笑顔を浮かべてくれた。

「気にすんな」
 仙石はそう言うと、再び手を伸ばしてくる。
 行はまたも身構えてしまうが、大きな仙石の手は、行の頭の上に乗せられ、そっと髪を掻き回しただけだった。
 そのことに、行はほんの少し安堵する。誰かに触れられるのは苦手だけれど、仙石にこうしてもらうのは好きだったから。

 そんな行の変化を感じたのか、仙石の指がつうっと動き、行の前髪をかき上げた。いつもは長い黒髪で隠れている額を露わにすると、仙石はそこに軽い口付けを落とす。
 行がそれに驚く暇もなく、仙石の唇も指も、あっという間に離れていった。
「このくらいは許してくれよ」


 先刻と同じような苦笑を浮かべている仙石の姿に、行はようやく仙石が自分に何をしようとしていたのかを知った。
 恋人同士なら、誰でも当たり前にする行為──キス──。
 そちらの方面には極端に疎い行でも、自分が仙石とそういうことをしている姿をぼんやりと想像したことくらいはあったのだから。

 しかし行は、突然に思い出す。以前に《いそかぜ》でジョンヒと唇を合わせた時のことを。
 あの時は、ただ嫌悪感しか無かった。自分が汚れたような気がしてならなかった。
 もしも、あれがキスだというのなら、仙石にも同じように感じてしまうのではないか……?

 行はそれが怖かった。
 誰よりも大切な仙石に、あんな思いを抱くことなど、想像もしたくなかった。仙石への恋心も一瞬にして消えてしまうのではないかと思った。
 行は自分の額にそっと手を触れる。つい先刻、仙石の唇が触れたばかりの場所に。
 そこは、何故かほんのり温かかった。まるで仙石のぬくもりが移ったかのように優しくて、もちろん嫌悪感など微塵も無かった。

 ……大丈夫だ。
 行は確信する。
 だって、仙石にキスされた額はこんなにも温かくて、胸の奥は切ないほどに震えながらも、紛れもなく悦びを感じているではないか。
 だから行は言うのだ。仙石への全ての想いを込めて。

「……仙石さん、ちゃんとキスして良いよ……」

         
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