【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『 face to face 』



 いつものように仙石の作ってくれたオムライスを食べて、行はのんびりと食後のコーヒーを飲む。お揃いのカップを見つめていると、それだけで心が温かくなるようだった。
 生涯、自分が手に入れることなど出来ないと思っていた穏やかな時間。
 ぬるま湯に浸かったような『何もない』日々は、頑なだった行の心もゆっくりと溶かしてくれた。明けない夜はないのだ、とでも言うように。

 テーブルを挟んで向かい側に座っている仙石は、どっかりとソファに腰を下ろして、くつろいだ表情を浮かべている。
 行がロングのソファに座っていれば、隣にむりやり割り込んでくることも多い仙石だけれど、行が一人掛けのソファにいる時は、必要以上に近付いて来ない。

 誰かに触れて欲しい、ぬくもりが欲しい時もあれば、そうではない時もある。
 そんな行の微妙な心の動きまでも、仙石は察してくれているのだろう。
 ……この人ならば、と思った。
 それは突然の衝動だった。行の心に一つの欲望が沸き、気が付いた時には、仙石に訴えかけていた。


「あの……、仙石さん。お願いがあるんだけど」
「お? おう、何だ。お前がそんなことを言うなんて珍しいな」
 いきなりの発言に、仙石は驚いた顔をしていたが、すぐに真っ直ぐに向かい合う。その強いまなざしは、全てを見透かしているかのようで、行をたじろがせた。
 けれど相手を屈服させるような威圧感はない。ただ優しくやわらかく包み込むだけだ。

 それを行も知っているから、逃げ出したくなる気持ちを堪えて、仙石の視線をしっかりと受け止めた。このくらいのことが出来なくては、これから先には進めない。
 そんな行の変化に気付いたのか、逆に仙石の方が居心地の悪そうな表情になった。
「何だよ、いったい」
 戸惑い気味の仙石に、行は決然と告げる。

「あんたの絵を描かせて欲しい」
「え……?」
 仙石が茫然とする。そして、ぼそりとつぶやいた。
「……俺で良いのか?」
「ああ、もう決めた」
 行はきっぱりと言うが、仙石の表情は晴れない。
「でもな、お前……、今まで誰も描いたことねえだろ」


 今度は行が驚く番だ。事実、その通りだった。
 昔はどうだったか覚えてはいないが、少なくとも館山に引っ越してきて、本格的に絵を描くようになってからは、一枚も『人間』を描いたことはない。
 けれど、それを仙石に言ったことはないし、全ての絵を仙石に見せている訳でもない。それなのに、どうして分かってしまったのか、行は不思議だった。

「……良く分かったな」
「まぁな。お前を見ていれば、何となく分かる。それに、お前の絵は風景画でも、いつも誰も居ないだろ。意図的に排除して描かれているような気がしたんだよ」
 行はうなずいた。
 これまでに人物らしき絵を描いたのは、『救出』と名付けられたものだけだ。だが、その情景には人間が必要だった、ということであり、他に表現方法があるのならば、人物も描くことはなかっただろう。

「オレにはまだ無理だ、と思っていたんだ」
 行は、ぽつぽつと今の心情を口にする。
「風景は目に写るありのままを描けば良い。それを見たオレ自身の思いを乗せても良い。でも人物画は違う。モデルに似せて描けば良いってもんじゃないんだ」
「まぁ、そうだろうな」
 仙石はうなずく。彼自身も絵を描くから、こういう感覚的なことでも分かってもらえるのがありがたかった。

「そっくり描くことなら、簡単に出来るだろうけど、それじゃ写真と同じだ。でも絵画ならば、その本質を捉えなくてはならない。その人の感情や内面までも受け止めて、オレ自身の絵として昇華させなくてはならない」
 仙石は黙って聞いている。行は話を続けた。
「でもオレは、誰かをそんな風に見つめることは出来ないと思っていた。そこまで深く知りたいと思い、奥まで踏み込めるような人は居ない、と」


 ……だが、そうではなかった。
 行は想いを込めて、ひたと仙石を見つめる。
「それが……、俺か?」
 分かりきったことを確認するかのように尋ねてくる仙石に、行は無言でうなずく。
 すると仙石は、明らかに困った顔になった。
「そうか、そこまで言われちまったら、嫌だとは言えねえなぁ」

「……嫌なのか?」
 まさか断られるとは予想していなかったので、行はショックを受ける。何の根拠もなかったけれど、仙石は喜んでくれると思っていたのだ。
 まるで告白をして振られたような気分だ。
 しゅんと落ち込む行に、仙石は慌てた様子で言葉を継ぐ。
「ああ、そうじゃねえよ。嫌なんじゃなくてな。三ヶ月、いや一ヶ月待ってくれねえかと思っただけだ」

「一ヶ月? どうして?」
 行が小首を傾げて尋ねると、仙石は恰幅の良い身体をポンと叩く。
「やっぱりモデルになるからには、もうちょっと見栄えを良くしねえとなぁ。今の身体じゃ、他人様には見せられねえよ」
 仙石は深い溜め息を付いている。行はその横っ面を殴りたくなった。
「絵と言っても裸じゃない」
「あ? そうなのか」
「それに描くとしても上半身だ。体型なんて気にする必要ない」


 オレは真剣なんだぞ、という思いを込めて、仙石を睨み付けると、彼は照れくさそうに頭を掻いて苦笑を浮かべた。
「まぁ、それはそうだろうとは思ったけどよ。やっぱりな、こんなオッサンよりは、可愛い女の子でも描いた方が良いんじゃねえかと」
 仙石の言うことも分からないでもない。それが普通の人間の発想なのだろう。ただし、如月行は普通ではない、というだけだ。

「オレは『人間』が描きたいんじゃない。あんたを描きたいんだ」
 正確には、仙石ならば描けるのではないか、と思ったのだ。真っ直ぐに向き合うことが出来るのではないか、と。
 きっぱりと告げられた行の言葉に、仙石もようやく覚悟が出来たらしい。
「そうか、分かった。よし、それじゃ描いてくれ」
「え……、今?」
「思い立ったが吉日って言うだろ」
「でも、こっちにも色々と準備が……」

 もちろん画材なども揃える必要があるが、それ以上に、心の準備がまだ整っていなかった。
 それなのに、仙石と来たら。
「まぁ、良いじゃねえか。とりあえずラフでも描いてみろよ。初めてなんだし、少しずつ慣れていくのも必要だろ」
 そう言うと、仙石は『ほれ、描いてみろ』とでもいうように胸を張ってみせる。何だかちょっとだけうっとうしい。というか面倒くさい。


 だが、最初に言い出したのは自分だ。ここは素直に従うべきだろう。
「……分かったよ」
 仕方がないので、行は二階のアトリエからスケッチブックと鉛筆を持ってきて、仙石と対峙する位置に腰を下ろした。
 見ると、仙石は妙なポーズを取り、顔も不自然に作った表情をしている。

「あの……、普通で良いから」
「これが普通だぞ」
「全然違う。いつもみたいに、のんびりしてれば良いよ。どうせ練習なんだ」
「……そうか?」
 仙石はどうやら不満そうだ。どうせなら格好良く描いて欲しいというところか。けれど、行が描きたいものは、そんな偽りの仙石ではないのだから。

 コーヒーでも飲んでろ、と言うと、仙石は不承不承マグカップを手に取る。それでも先刻よりはずっと自然な表情だった。
 行は真剣なまなざしで、仙石と向き合う。
 こうして改めて見てみると、新鮮な発見がいっぱいだった。
 豪快な眉の形、力強い目の大きさ、ずんぐりとした鼻、少し骨張った頬に、がっしりとしたあごには無精ヒゲがちらほらと。

 仙石はこんな顔をしていたんだな、と今更ながらに思う。見ているようで見ていなかったのだろう。
 普段なら気恥ずかしくて、まじまじと見られない仙石の顔も、絵を描くという行為に置き換えると、自然と見つめられるのが不思議だった。
 スケッチブックの上を滑らかに鉛筆は動いて、白い紙に仙石の顔が描かれてゆくけれど。


「……ダメだ」
 行はどうしても納得がいかなかった。これでは単なる似顔絵だ。
「もう出来たのか? 見せてくれよ」
「失敗したから嫌だ」
 行が拗ねた子供のようにつぶやくと、仙石はあっけらかんと笑う。
「良いじゃねえか。お前が『練習』だって言ったんだぞ。最初は下手でも、そのうちに上手くなるさ。お前の腕ならな」

 そう言われても、行には自信が持てなかった。問題は技術的なことではないような気がするのだ。
 自分が描きたいと思った仙石が、この絵の中には存在しない。空っぽだ。何かが足りない、というよりは、何もかもが足りていない。
 スケッチブックを前に、深い溜め息を落とす行に、仙石はいたずらっぽい笑みを向ける。

「それにな、行。俺だって、50年も生きてるんだ。そう簡単に写し取れるほど、浅くはないつもりだぜ?」
「そっか……」
 行はようやく腑に落ちた。
 自分の短い人生と拙い経験では、見通せないものが、仙石にはあるのだろう。それを見つめ、受け止めて、描ききるには、それなりの時間が必要なのかもしれなかった。


「一生、掛かりそうだな」
 行がぽつりとつぶやくと、仙石は明るい口調で答える。
「そりゃあ良い。ぜひライフワークにしてくれよ。俺も最後まで付き合うからよ」
「そうだな」
 行も釣られて微笑んだ。

 こうして仙石の絵をたくさん、たくさん描いてゆき、いつの日か、自分でも満足いく絵が出来上がる時が来るのだろうか。
 たとえ何年、何十年掛かったとしても、そうやって仙石と向かい合って、仙石の絵を描き続けるのは、とても幸福な光景のような気がした。
 結婚することも、子孫を残すことも出来ない二人だけれど、こうして未来に残っていくものも、確かに存在するのだろう。

 初めて行は、絵を描く道を選んで良かったと、心から思うのだった……。


          おわり



ここまで読んで下さってありがとうございましたm(_ _)m

そういえば、行が絵を描くシーンをあまり書いていないな。
仙石さんを描かせたらどんな感じになるのかな。
ふと、そんなことを思って書き始めたこの話ですが。

こうしてずっと仙行を書き続けてきた私にとって、
すごく重要な位置を占めるものになりました。
これで仙行SSを最後にしても良いんじゃないかな、
と思えるくらいにキリの良い感じじゃないですか?

行が人物を描かないというか描けない、というのは、
最初から考えてありました。
そもそもは命あるものが描けないという設定で、
花も木も描かないってことになっていたのですが、
それはいつの間にかどこかに行っちゃったなぁ(苦笑)。

でも仙石さんと向かい合うことによって、
人物画が描けるようになったとしても、
行が描く人はただ一人なんでしょうね。

2011.06.21

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