「雪の日」


如月はいつものように戸締まりの確認をするために、
ふすまをあけ、部屋を出た。
家の中とは思えぬほど、ひいやりとした廊下は、
裸足の足につきささる。
毎日の事ではあったが、この瞬間だけはどうも慣れない。
頭のてっぺんからつま先まで、全身が凍りつきそうになる。

が、どれほど厳しい寒さの真冬であろうとも、裸足を貫き通すのは、
その瞬間が、不快なだけではないからかもしれなかった。
そして、家の中にいても、決して油断する事のないように、と
自分を戒めるためでもあるのだから。

「寒いと思えば…」
如月は立て付けの悪い雨戸をガタガタと音を立てて閉めながら、
つぶやいた。
窓の外にはしんしんと雪が降り積もっている。
都会では年に数回しかお目にかかれない光景だ。
形良く手入れされた庭木が、ふんわりとした
白い雪のヴェールをかぶっていた。
夜も遅い時間だが、雪明りで、ほのかに照らし出された
庭の美しさに、如月はすっかり目を奪われる。

薄い寝巻き姿であったが、雪に誘われるかのように、
そっと外に出た。
寒い事など承知の上だ。
たたきに置かれていたつっかけをはくと、
さくさくと小気味良い音を立てて、
純白のじゅうたんの上を踏みつけていく。

しばらく子供のようにはしゃいでしまっていた自分に、
如月は頬を赤らめた。
そして、そのまま家に戻ろうとした瞬間、
自分を見つめる気配に気付く。

刹那、今までの無邪気な風情はすっと姿を消し、
忍びとしての顔に豹変していた。
じっと息を詰め、相手の気配を探る。
しかし殺気や闘気はみじんも感じられない。

…やみくもに怯えても仕方がない。
如月は意を決して、気配のする方に歩を進めた。
警戒だけは怠らないが。
やがて、ぼんやりとしていた人影の輪郭がはっきりしてゆき、
如月の良く知る人物の姿を形作った。
「君は…」
如月は形の良い眉をひそめ、絶句する。


その視線の先の、長い純白のコートに身を包んだ長身の男は、
如月の言葉を待たずに、すっと手を上げた。
「よォ」
そう言うと、唇からは真っ白な息が煙のように吐き出される。
男の髪にも肩にも、全身にすっかり雪が降り積もっていた。
いったいどの位そこで立ちつくしていたと言うのだろうか…。

「ここで何をしている、村雨」
知らずして如月の声が堅くなる。
尋ねる、というよりも詰問に近い。
が、村雨は悠然とした微笑みで受け流した。
「そんなに心配してくれるとは、嬉しいねぇ」
「誰が君の事など…!」
むきになって言い返す姿で、却って内心があらわになってしまう。
村雨は苦笑するが、そんなことは、
この不器用で清冽なほどに、かたくなな魂には、
分かるはずなどないのだった。

そしてそれこそが、なによりもいとおしい。
自分の持ち得ないものをすべて持っている如月だからこそ、
惹かれてしまう。
自分でも戸惑うほどに…。
しかしそんな風に思っている事など、おくびにもださず、
村雨は余裕の笑みをたたえるだけだ。

如月は微笑む村雨の姿に、やはり戸惑う。
何故この男は雪の中を立ちつくしていたのか。
ましてや他人の家の、庭の片隅で…。
如月にはこれっぽっちもこの男が理解できなかった。

自由でなにものにもしばられないようでいて、
自分が興味を持つと、何が待ち構えていようとも
喜んで飛びこんでしまうような無鉄砲さがある。
たとえ、その先の罠に囚われてしまったとしても、
構いはしないのだ。
自分が楽しければそれで。


…得体が知れない。
如月は胡散臭げに目の前の男を見つめた。
昨年、ある事件をきっかけに知り合ってから、
同じ存在を護る『仲間』として、付き合っては来たが、
それでも完全に心を許した事はなかった。
友人だ、などと思ったこともない。

この男は、いつも自分の理解できない言動を取る。
幼い頃から忍びとして育ち、他人の先を読む癖のついている
如月にすら、まるで予想のつかないことをするのだった。
そのくせ、村雨にはことごとく如月の内面が見えているらしい。
どんな時でも「お前の事などお見通しだぞ」と
でもいうように、余裕の微笑みを浮かべている。
それが悔しく、いまいましい。
が、そう思っていることさえも、村雨には
気取られてしまっているようだった。

やはり苦手だ、この男は。
如月は苦虫を噛み潰したような顔をしながら、
心の中でつぶやいた。
すると、村雨はくるりと背を向ける。
「じゃあな」
そういって、右手を上げる後ろ姿を、如月は茫然と見つめていたが、
やがて声を荒げて叫んだ。
「一体どういうつもりだ、君は!」
…本当に、何もかも分からないのだ、この男だけは。

混乱する如月とは対照的に、村雨はやはり余裕でこちらに向き直った。
「俺は賭けに勝った。それだけさ」
にやりと微笑み、低く響く声で言う男の姿を、如月は、
まるでこの世のものでは無いものを見るような目で見つめる。
「何を言っている?」
それでも必死に自制心を働かせ、精いっぱい怒りを抑えて尋ねる如月を、
村雨はやわらかい瞳で見おろした。
そして、ふうっ、と深いため息をつき、話し始める。

「…あんたに会いたかった。
  だが、会ってしまうと決心が鈍りそうだった。
  だから賭けてみたのさ。
  ここでこうして待っていて、あんたが俺に気付くかどうか、に。
  そしてあんたは気付いた。
  …俺は賭けに勝ったというわけだ」

如月は茫然とする。
バカじゃないのか、この男は。
この凍えそうな夜に、雪の中で立ちつくしていた理由がそんなことだとは。
あきれて言葉のでない如月に、村雨はふっと微笑んだ。
「俺の運もまだ尽きていないらしい」

その言葉を聞いた瞬間、如月の頭の中は真っ白になった。
自分でも理解できない感情で、気付いたら、
目の前の男に殴りかかっていた。
避けようと思えば楽に避けられたこぶしを、左の頬にまともに受けて、
村雨はがくりと倒れこんだ。
如月は、右手を爪が食いこむほどに強く握りしめたままで、
荒い息をつく。

「君という男は…っ!」

こんな風に感情がかき乱されるのは嫌だ。
自分で自分が制御できなくなるのは嫌だ。
今まで知らなかった自分を思い知るのは嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
この男は自分が望まない事ばかりをする。
この男の前では、自分が自分でなくなってしまう。
だから嫌いだ。
どうしようもなく、嫌いなんだ。
…僕は村雨祇孔が世界の誰よりも嫌いだ。

ようやく辿りついた結論を、如月は迷わず言葉に出した。

「僕は君が世界中で一番嫌いだ」

殴られた頬に手をあて、うっそりと起きあがる村雨の耳に、
その言葉は、地に水が染み込むように、
ゆっくりと、そして深く響いてきた。
村雨は微笑む。
いったいこの世に、これ以上の愛の言葉があるだろうか…?
「それは、光栄だな」
そっとつぶやき、村雨は身をひるがえした。
今度こそはもう振返りはしない。

別れの言葉もなく、当然のように歩き去っていく村雨の後ろ姿を、
如月はただじっと見つめていた。
見つめるつもりもなかったが、勝手に視線が吸い寄せられてしまうのだ。
が、すぐに我に返ると、家の中に戻っていく。
ひいやりとした廊下も、今はそれ以上に自分が冷えてしまっているので、
なにも感じさせはしなかった。

どこか芯がしびれたような頭のままで、
如月は、がたつく雨戸を閉めにかかる。
そしてすべてしっかりと閉じてしまった頃、
村雨の言葉が頭の中によみがえってきた。

「…あんたに会いたかった。
  だが、会ってしまうと決心が鈍りそうだった…」

何の決心だ…?
まるで今生の別れのようでないか。
そしていまさらながらに、はっと気付く。
旅立つと言っていたではないか、あの男は。
すべて片がついたら、どこか自分の運を試せる場所を探しに行くと。

「それが今日だというのか?」
如月は思わず口に出していた。
あわてて外に出ようとして、雨戸をすべて閉めてしまったことに気付く。
「ちっ」
鋭い舌打ちをすると、玄関に向かい、
きっちりそろえられていた靴をはき、駆け出した。


「村雨…!」
声を上げて名を呼びながら、必死にあの後ろ姿を探す。
しかし純白のコートに包まれていた彼を、雪が隠してしまったのだろうか。
まるで姿が見えなかった。
必死にあたりを探っても、人の通る気配すらない。
さっきまであの男が目の前にいたことが、幻であったかのように。

「君という男は…」

如月は村雨に怒鳴りつけた同じ言葉を、もう一度つぶやいた。
しかしその言葉に含まれた感情は全く違うものだったのだが。
如月の戸惑いも、困惑も、怒りも、何もかもをおおいつくすように、
ただ雪はしんしんと如月の上に降りつづけるのだった…。


            おわり

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ここまで読んで下さってありがとうございます。m(_ _)m

ドラマのワンシーンのようなSSを目指したつもりですが、
全然出来てないですね。
続きがいかにもありそうですが、ないんです。
すみません。
実はこのあと、やっぱり村雨が待っていて、
追いかけてきた如月となだれこむ(何に?)、
という話にする予定だったのですが、これはこれでいいかな。
なだれこむ話は書くかもしれないし、書かないかもしれない…(苦笑)。

それにしても村雨、これじゃ、ほとんどストーカーですね。
どこで何を間違えてしまったのか…。

 


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