「最後の言葉」  ―たぬきさまへ


 



…いつからだろう。彼のことが気になりだしたのは。

初めて会った時は、はっきり言って僕は、
龍麻以外は目に入っていなかったから、
彼のことも『龍麻といつも一緒に居る人』
くらいの認識しかしていなかった。
うちの骨董品店に足を運んでくる程度の
付き合いしかなかったこともあるだろう。

それが…。
きっとあの日以来、変わってしまったんだ、僕は…。


邪神の復活を阻止しようと奔走していた日々の中で、
僕は彼らと出会った。
その時には、余計なことに首を突っ込もうとしている
邪魔者たちを追い払おう、というくらいの気持ちで
声をかけたのに。
これは僕の使命でもあり、義務でもあるのだから、
僕が『一人で』やらなくてはならない、と
頑なに思い込んでいた僕の過ちに、
気付かせてくれたのが、…彼だった。

今でも僕はそのときの言葉を、
鮮やかに思い出すことが出来る。
 『そんなもん背負い込んで、おッ死んじまってみろ。
  …それこそ、くだらねえ』
生まれながらに『玄武』であり『飛水一族』であった僕が、
囚われていた義務や重責、あるいは慣習やしがらみ。
そんなもの全てを、彼は『くだらないもの』だと斬って捨てた。
なにものにも囚われない人間という者に、
僕は初めて出会ったような気がしていた。

これまで僕の周りにいた者たちは、
誰もが僕を何かに縛りつけようとして来たから。
僕もそれに全く疑問を持たずに、
当たり前だと思ってきたけれど、
本当は違うのではないか?
別の生き方があるのではないか?
と教えられたようだった。

それまで、僕は彼にはあまり好かれていないと思っていたし、
事実、そうだったのだろう。
あまりにも僕と彼は違いすぎるから。
まるで太陽と月のように、対極の位置にある存在だから。
たくさんのものに自分から囚われようとしている僕を、
彼が不甲斐ない、情けないと感じるのも無理もないと思う。
それでも、やはり僕は僕でしかいられないし、
この生き方を変えることなど、
出来はしないと思っていたのだけれど…。


芝プールの前で出会った日から、
彼の方から僕の店にやってくることが多くなっていった。
用件はいつでも他愛もないもので、
旧校舎で拾ったガラクタを買い取ってくれ、だの、
木刀の具合が悪いから見てくれ、だの、
わざわざここまで足を運ぶほどの内容でもなかったけれど、
ほとんど毎日のようにやってくる彼を、
いつしか心待ちにしている僕が、そこにいた。

彼に会うことが楽しくて、一方的に話される彼の言葉を、
ただ聞いているだけで、幸せだった。
その日にあった出来事を、
明るい笑顔で面白おかしく話す彼に、
僕は相づちを打つくらいしか出来なかったけれど、
彼の楽しそうな様子を見ているだけで、
僕も心が浮き立つのを感じた。

思い起こせば、友人らしい友人もいなかった僕は、
そんな風におしゃべりをするような相手も存在しなかった。
仕事上の付き合いで、
骨董の話をする人ならば、何人もいるけれど、
誰もが皆ずっと年上の人たちばかりだったし、
対等に話すというよりも、教えを請う方が多かった。
まだまだ骨董品屋としては駆け出しであり、
目も腕も未熟な僕を導いてくれる人たちで、
それはもちろん大切な存在ではあるのだけれど、
そうではなく、ごく普通の日常会話を交わす相手
というものが、僕には居なかったのだ。

それを、僕は彼に出会って、ようやく気がついた。
それまで自分が孤独だとか、寂しいとか、
考えたこともなかったし、自覚も全くなかった。
学校では、それなりにクラスメートとも話はする。
茶道部も定期的に顔を出す程度ではあったものの、
部長としての義務を果たしてはいるつもりだ。

そう。僕にとっては、学校も部活もやはり『義務』であり、
『やらなくてはならないこと』だった。
僕が持っていたものは全て、
僕が選び取ったものではなく、
気がついたら手に持っていたり、
押し付けられたりしたものばかりで。
そして、それを疑問に思うこともなく、
ただ持ち続けてきたのだ。

それを『くだらねえ』と『捨てちまえ』と言う
強さを持つ彼が、僕は心底羨ましかった。

僕はきっと怖かったんだろうと思う。
僕の手に持っているものを、捨ててしまったら、
後には何が残るだろう。
僕に残されるものが、果たして存在するのだろうか。
そうなったら、今まで僕のしてきたことは無意味になってしまう。
と、そんなことばかりを考えて。

喪うことを怖れて、僕は一歩も前に進めずにいた。
そこに立ち尽くす僕に、彼は手を差し伸べてくれた。
『こっちへ来いよ』と、明るく微笑んでくれているようだった。

…でも、僕は行けない。
僕は知っているから。
彼のその手は、決して僕にだけ、差し伸べられるものではないと。
彼は誰にでも、そうやって手を出すことが出来る人なのだ。
僕はやっぱりどうしても臆病で、情けない人間だから、
その手が僕のものであると確信できないと、
決して前に歩くことは出来ないのだった…。


だから、僕は言ってしまったのかも知れない。
その手が僕だけのものだ、と確信したくて。
あるいは、僕のものではない、と思い知らされたくて。

またいつものように、大した用もないのにやってくる彼に、
僕はきっぱりと言った。
「忙しいから、もう来ないでくれないか。迷惑なんだ」と。
そのときの彼の顔は、僕は覚えてはいない。
どうしても彼の顔を見ることが出来なかったから。
彼の明るい鳶色の瞳を見つめてしまうと、
心にもないことを言うことなんて出来やしないのだから。

覚えているのは、彼の声だけ。
「…そっか」
吐息のように、小さくつぶやいて、それから彼はくすっと笑った。
「悪りぃな、邪魔しちまって。そうだよな、仕事中だもんな」
続いた言葉は、僕に対する謝罪というよりは、
自分を納得させようとしているかのようだった。
「じゃあな」
それでも彼は明るい声で、手を振って出て行った。

僕は彼の背中をただ見つめていた。
それだけしか出来なかった。
彼の名を呼ぶことも、引き止めることも出来なかった。
…今更そんなことは出来やしない。
自分の勝手で彼を傷つけておきながら。
彼を拒絶した僕に、そんな権利など、
あるはずがないのだった…。


そして、その日から、彼は来なくなった。

僕は何かを振り切るように、『敵』の姿を追い求め、
あちこち探し歩いた。
そうすることで、彼のことも何もかも、
忘れられるのではないか、と思っても、
ますます『義務』になっていくばかりだった。
気がつくと、いつの間にか真神学園の近くにまで
足を延ばしていることもあった。

店に出ている時は、扉が開くたびに、ハッと顔をあげ、
彼ではないかと期待してしまう自分がいた。
自分からは謝ることも、会いに行くことも出来はしないのに、
彼の方からやって来てくれないかと願っている。
そんなどうしようもない自分の浅ましさに嫌気がさし、
僕は唇を噛みしめた。
あまりに強く噛んだせいで、血がにじみ出し、
舌の上に錆びた味が広がっていく。

もう、僕はどうしたら良いか、分からなくなっていた。
ただぼんやりと、日課になっている骨董品の整理を始める。
棚を並べ替え、季節に応じた品を出したり、
売れ行きの悪いものを片付けたり。
頭の中は霞がかかったように、ぼんやりとしていたが、
身体が勝手に動いて、それらの作業を漫然と終わらせた。

そして、ふと目の前にあった茶碗を手に取る。
備前焼の渋い茶色の色合いが、
彼の瞳のように見えて、どきりとした。
まるで彼に責められているかのような錯覚を感じ、
戸惑いながら、茶碗を元の棚に戻そうとして、手が滑った。
かしゃん、と軽い音を立てて、床に落ちた茶碗が割れる。
僕はそれを茫然と見下ろしていた。

やがて、意識がはっきりしてくると、
自分が何をやってしまったのか思い知らされ、愕然となった。
「…骨董品屋として、失格だな」
思わずつぶやきながら、茶色の欠片をひとつひとつ、
手で拾い集めた。
両手の上にすっぽりと収まってしまった欠片たちが、
何かを話したそうに訴えかけてくる。
僕はそれを見ているのがつらくて、そっと目を伏せた。
…祈るかのように。

僕が壊したのは、ただの茶碗じゃない。
骨董品としてはそれほど値のあるものではないが、
そんなことではなく、長いこと使われてきたものには、
使った人の想いや、記憶や、歴史が宿っている。
だからこそ、骨董品は魅力的なのだろう。
誰かの手から手へ伝わって、ここへ辿り着いたこの茶碗が、
自分の不注意で割られる運命だったなどとは思えない。
いずれは大切にしてくれる誰かに買われて、
使ってもらえる筈だったのに。
僕がこの茶碗の何もかもを奪ってしまったのだ。

どうにもやり切れず、さりとて欠片を手放すことも出来ずに、
ただ床に座り込んでいた僕の耳に、
鋭い声がいきなり飛び込んできた。
「何やってんだよッ!」
あたりに漂う沈うつな空気を切り裂くかのように、
現れたその声の主は、やはり前触れもなく
僕の手をぐい、と引っ張る。

「君は…、どうして…」
彼は僕の言葉には答えずに、乱暴な手つきで、
茶碗の欠片を僕の手から払い落とした。
そして、ぼそりとつぶやく。
「危ないだろ。
 こんな割れた茶碗なんか、握りしめてんじゃねえよ…」
「…すまない」
素直に謝る僕に、彼は戸惑ったような顔をしていたが、
またいきなり僕の腕をつかんだ。

そのまま手を引き、つかつかと勝手知ったる足取りで、
僕を部屋の中につれていく。
僕は、ただそれにされるがままになっていた。
まだ、僕は彼がここにいることが信じられず、
ぼんやりとするだけだ。
彼が現実に目の前に存在しているのかどうかすら、
意識できていなかった。


すると、彼は僕を居間に座らせて、自分もゆったりと腰を下ろす。
そこでようやく話をする態勢になったようだ。
「いきなり悪かったな。その…、ケガしてねェか?」
心配そうなその声音に、僕はいたたまれなくなる。
ふと気付くと、まだ僕の手首は彼の手に掴まれたままだった。
慌ててその手を振り払う。

「大丈夫だ、何ともない」
そう言って、背を向けようとしたところに、
彼の指先が目に入った。
「君の方こそ、血が出ているじゃないか…」
僕の手から欠片を取り上げた時に傷ついたらしく、
指先から血がにじんでいた。
「こんなの、どうってことねえよ」
そう、きっと彼にとっては、
騒ぎ立てるほどの怪我ではないのだろう。
だが、僕は見過ごすことは出来なかった。

思わず彼の手を取り、その指を口に含む。
指先から、彼の戸惑いを感じられたが、もう止められやしない。
じっくりと感触を味わうように、彼の指先に舌を這わせていく。
舌の上に、錆びた鉄の味が広がった。
先刻、ちょうど僕が自分の唇を噛みしめた時のように。
それでも、彼の血の味は、
どこか甘いように思えてならなかった…。

「…もう、いいって」
困ったような、焦れたような彼の言葉に、
僕はハッと我に返った。
ようやく手は離したものの、僕もどうしていいか分からない。
それでもそっと彼の顔を見つめると、
彼はこちらに背を向けている。
その姿は僕を拒絶しているようで、胸の奥がずきりと痛んだ。
…自分のことは棚に上げて、だ。

しかし、すぐにそれが誤解だと気付く。
収まりの悪い茶色の髪の下から覗く耳が、
ほのかに赤く染まっていた。
よく見れば、頬も上気しているのが分かる。
拗ねたように唇を噛んでいる彼は、
ひどく可愛らしく見えて、僕はたまらなくなった。


「…僕は、君が好きだ」

突如として、激情とともにあふれ出した言葉は、
もう自分自身でも止めることが出来なくなる。
彼が驚きのあまりに、鳶色の瞳を見開いているのにも、
気付いていたけれど。

「ずっと、君の事を想っていた…。
 君の言葉は僕をいつも明るく照らし、
 光り輝く道を指し示してくれた。
 僕が君と居る事で、どれだけ救われたか、
 言葉には尽くせないほどだ。
 君の笑顔を見、君の話を聞き、
 君がずっと僕の傍らに居てくれたら、
 どんなに幸せなことだろう。

 …僕には、そんなことを言う資格がないことも
 分かっている。
 ひどい言葉で君を傷つけ、拒絶しておきながら、
 今更何を言っているんだ、と思っているだろうね?
 いきなりこんな風に気持ちを打ち明けられては、
 今までどおりの友人に戻ることも出来ないだろう。

 それでも構わないんだ、僕は。
 君に嫌われてもいい。
 …ただ、誤解され続けていることに、
 耐えられないんだよ、もう」
ずっと僕の言葉を黙って聞いていた彼は、
ぼそりと一言つぶやいた。
「…誤解って何だよ」

「もちろん、『もう来るな』と言ったことだ。
 僕は君を喪う事が怖くて…。
 君がいつか来てくれなくなるんじゃないか、と
 毎日を怯えて暮らすことに、疲れたんだ。
 だから、思い余ってあんなことを…。
 でも本心じゃない。
 本当はずっとそばに居て欲しい。
 君が迷惑じゃなかったら、また以前のように…」

彼の反応をうかがうように、声をひそめた僕に、
彼はくすっと微笑んだ。
「バカだな、お前。
 んなことを一人でくよくよ気にしてたのかよ。
 オレは前に言ったろ?
 『ひとり』じゃ何も解決しないってな。
 …ホント、そんなんだから、放っておけねえよな、お前」
「え…?」
僕は思わず自分の耳を疑った。
…それは、もしかしたら…?

「いいのかい?」
おずおずと尋ねる僕に、
彼は今度は弾けるような明るい笑顔になる。
「イイに決まってんだろッ」
きっぱりと言い切って、ふと思い出したようにつぶやいた。
「…それにな、好きでもねえヤツの所に、
 毎日毎日、用もないのに来るヤツなんて居るかよ。
 …オレだってずっとお前に会いたくて、さ」

僕はその言葉を最後まで聞いていられなかった。
思わず彼に飛びつき、収まりの悪い茶色の髪ごと、
彼の頭をぎゅっと抱きしめる。
「わっ、な、何だよ…ッ」
彼は僕の腕の中で、じたばたと暴れた。
僕よりも身体つきの良い彼だから、本気で抵抗したら、
僕なんて吹き飛んでしまうのだろうけれど、
そこは彼なりに手加減してくれているらしい。

僕は彼の髪に顔をうずめた。
明るい太陽の色を映したその髪は、
やはり日なたの匂いがする。
僕が今まで知ることのなかった『外』の匂いに他ならなかった。

「…好きだよ、京一」
耳元にやわらかく口づけを落としながら囁くと、
彼はやはり耳まで真っ赤になる。
「オレも…、すっ、好きだよ。
 えっと、その、ひ、…翡翠」
しどろもどろになる彼が、何よりもいとおしかった。

しばらく幸せをじっと噛みしめて、
ずいぶん経ってから、僕は気付く。
初めて彼が僕の名を呼んでくれたことに。
彼の唇から、彼の声で発せられた僕の名は、
自分自身のものとも思えぬほどに、甘美に響いた。
彼の高からず、低からず、
そして耳にかすかに残る独特の声に、
僕はそのまま酔いしれる。

このままずっと、彼が僕の名を呼んでくれたら、
それだけで、僕は生きてゆけると思った。
僕は心の中でつぶやく。
まだ、口には出せない最後の言葉を。
いつか、彼に伝えたい、言葉を。

『愛している、京一』と…。


             おわり

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ここまで読んで下さってありがとうございます。m(_ _)m

なんだかどこかで見たようなラストだと思った方は
気のせいですので忘れるように(苦笑)。
この言葉で閉めるのが好きみたいですね、私。

「裏」にも如京があったりするのですが、
そちらとは違い、如月メインにしました。
すると京一メイン「裏」はコメディタッチだったのに、
こちらはやたらと暗く重くなり…。
私の如月像ってこんなのらしいです(笑)。

だからなかなか「如京」にならなくて苦労しました。
最後の最後でそれっぽくなったかな。
こんなんで良かったかどうか不安ですが、
これからもどうぞよろしくお願いします。

 



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