「ふんふふーん」
軽快な鼻歌と共に、成歩堂は身支度を整える。ネクタイはきっちりと締め直し、撫で付けた髪には一筋の乱れもない。完璧だ。
「まだ、ちょっと早いかな」
腕時計に目を落として、成歩堂はつぶやく。
待ち合わせの場所までは、それほど時間はかからない。今からここを出ると、向こうでかなり待つことになりそうだった。
「でも御剣を待たせるよりは良いよな、うん」
自分で自分を納得させて、成歩堂は事務所を後にする。
今日は御剣と会う約束をしていた。
多忙な身の御剣は、どうせ破ることになるのだからと、決して事前に会う約束を交わそうとはしなかったのだけれど。
先日の御剣は、珍しく自分からワガママを言って、約束が欲しい、とおねだりしてくれたのだ。
成歩堂はそれが何よりも嬉しかった。
好きな人を喜ばせたいと思う。どんな願い事だって叶えてやりたいと思う。それは男として当たり前のことだろう。
だが御剣は、成歩堂のそんな単純な望みすら、簡単に叶えさせてはくれない。自分の中だけに溜め込んで、弱音を吐くことも、ワガママを言うこともしないのだから。
(でも……、あの時は可愛かったな)
成歩堂はニマニマしながら、その夜の御剣を思い出す。
すがるように何度もキスをねだって、まるで捨てられた仔猫のような目をしながら、次に会える約束が欲しい、とつぶやいた御剣が可愛くて堪らなかった。
彼に愛されている、そして彼を愛しているのだと実感できるのは、こんな時だ。
プライドが高くて意地っ張りな恋人は、めったなことでは愛の言葉も口に出してはくれないけれど。
100万の言葉を費やすよりも、たった一度、そのまなざしを向けられただけで、雄弁に伝わってくるものも、確かに存在しているのだから。
(そうそう、あの時の御剣も……)
成歩堂は心の中のアルバムをめくり、御剣の姿を次々に思い出してゆく。どれも綺麗で可愛くて、魅力的な顔ばかりだ。
こうして居るだけで、時間はあっという間に過ぎてしまうから、成歩堂は待ち合わせ場所で立ち尽くしていても、退屈することなど無かったのだ。
けれど……。
「時間、間違ってないよな……」
時計に視線を向けて、成歩堂は何度目かの溜め息を落とす。時間に正確な御剣は、そもそも待ち合わせに遅れたことなど無いというのに。
成歩堂はにわかに心配になる。
(まさか途中で事故に遭ったり……、なんてことは)
後から後から不吉な予感ばかりが脳裏をよぎり、成歩堂はぶんぶんとかぶりを振った。
「そんなはずない。ちょっと遅れているだけだよ、多分」
そうはいっても、もう待ち合わせの時間からは一時間も経っている。単なる遅刻だとは考えられなかった。
電話を掛けてもメールをしても何の返答もなく、ただ無為に時だけが過ぎるばかりという状況に、成歩堂は居ても立っても居られなくなった。
御剣が居るとすれば執務室だろうか。だとしても、まずは彼の自宅へ行ってみてから、執務室に向かう方が良いか。
いや、それとも最初に糸鋸刑事にでも電話をしてみたら、何か分かるかもしれない。
成歩堂は携帯電話を片手に右往左往する。
御剣のために出来ることはたくさんあるのだろうが、頭が混乱していて、思考がまとまってくれなかった。
すると、ふいに手の中の電話のベルが鳴る。
成歩堂がハッとして表示を見ると、御剣からだった。
「もしもし、御剣! どうしたの?!」
『成歩堂……、すまない』
応える御剣の声は沈鬱な響きを帯びていた。
「……御剣?」
『きっと君のことだから、まだ待ってくれているのだろう? 実は急な仕事が入って、電話も出来ない状態だった。それでこんなに遅くなってしまったのだが……、ただの言い訳だな。本当にすまなかった。この埋め合わせはいずれしよう』
ずいぶんと饒舌なのは、彼が言うとおりに、これが『言い訳』だからなのだろう。後ろめたいから言葉を重ねずにはいられない、そんな様子だった。
成歩堂はくすりと笑う。
「いいよ、そんなの。それより、ただの仕事なんだね? お前に何かあったんじゃないかと心配していたんだよ。そうじゃないなら、僕のことなんて気にしなくて良い。ただ、あんまり無理はするなよ」
『あ、ああ……、ありがとう、成歩堂。その……本当に、この借りは必ず返すから』
「だから気にしなくて良いって。仕事なら仕方がないだろ。そうだな、次に会った時にはビールでもおごってもらうよ。それで十分だ」
『すまない……。ああ、もう行かなくては。ではな、成歩堂。また連絡する』
「ああ、またね、御剣」
無情にも電話は切れてしまい、成歩堂は一人、取り残された。
浮かれていた気分が一転、奈落の底に叩き落とされたようで、しばらくそのまま立ち尽くしていたが、こんな時でもやはり腹の虫は空腹を訴える。
仕方がないのでラーメン屋に行き、美味くも不味くもないラーメンをすすって、味気ない食事を終えた。
(……なんか空しいなぁ……)
成歩堂は重い足取りで自分の部屋へと戻るしかなかった。今日は御剣に会えると期待していただけに、誰も居ない暗い部屋に帰るのが、憂鬱で仕方がない。
しかも家賃が安いだけが取り柄の古びたマンションは、廊下の電灯も薄暗くて、余計に成歩堂の気持ちを沈ませた。
しかし、ふと見れば、その廊下の片隅に、幽霊のように立ち尽くす影が一つ。
「え……、まさか」
慌てて駆け寄ってみると、やはりそれは御剣だった。
「……成歩堂」
「御剣、もしかして、ずっとここで待っていてくれたの?」
成歩堂の問いに、御剣は小さく首を横に振る。
「いや、つい先刻来たところだ。仕事がどうにか終わったのでな……」
蚊の鳴くような声でつぶやく御剣は、いつもに増して肌が白く、今にも消えてしまいそうなほどに儚げだった。
成歩堂は思わず彼の頬に手を伸ばす。
「ずいぶん冷えてる。電話してくれれば、すぐに戻ったのに。待たせてゴメン」
成歩堂がラーメン屋に行ったりして、だらだらと無駄な時間を費やしている間に、御剣は必死に仕事を終わらせて、ここに来てくれたのに違いない。
「元々、約束を破ったのは私の方だからな」
「そんなことより。とにかく中に入ろう。夕飯だって食べていないんだろ?」
「……すまない」
そう言って、どうにか玄関の中には引き入れたものの、何故か御剣はそこから先に上がろうとはしない。
「どうしたの?」
家中の電気を点けながら、成歩堂が尋ねると、御剣は不安げなまなざしでつぶやいた。
「……怒っていないのか?」
そういえば御剣は、電話でも何度も謝っていたことを思い出す。
「どうして僕が怒っていると思うの?」
「怒られて当然のことをしたからだ」
御剣は即答するけれど、成歩堂は静かに首を横に振った。
「確かにがっかりはしたけど、ね。怒ってはいないよ。仕事なんだから、仕方がないじゃないか。もしもお前が僕を放っといて、他の男とデートしてたのなら、怒るだろうけどさ」
冗談めかしてみても、御剣の唇には笑みも浮かばない。
「ムロンだ。君以外の誰とそんな……」
「だったら問題ないよ。そこまで気に病むことはないから。それとも、僕はそんなに心が狭い人間に見えるのかな」
成歩堂の言葉に、御剣はハッと顔を上げた。
「違う。そんなこと思ってはいない。君はいつでも優しい。だから、つい私はそれに甘えてしまって、君を傷付けてばかりで。それで……」
「それで?」
「こんなことを繰り返していては、いつか捨てられるのではないかと……」
「不安になったから、慌てて駆けつけてくれたんだ?」
御剣はこくりとうなずく。
成歩堂はこういう御剣の面倒くさい性格も、意外なほどに自己評価が低くて、ネガティブなところも、もちろん知り尽くしてはいるけれど。
デートの約束を一度破っただけで、こんなにも不安に囚われてしまうなんて、やはりまだ自分の努力が足りないのだと、反省せずにはいられなかった。
そこで成歩堂は御剣の身体をぎゅっと抱きしめる。
「どうしたら、お前は分かってくれるのかな。僕がお前を捨てるなんて、絶対に有り得ないってことを」
「成歩堂……」
それでも成歩堂の腕の中で、御剣は身を固くする。じっとうつむいたまま、抱擁に応えることもしてくれない。
抱きしめた御剣の身体も、触れた頬もひどく冷えきっていて、成歩堂は胸を痛めた。
「とりあえず熱いシャワーでも浴びたらどう? その間に部屋を暖めておくから」
そう言っても、御剣は頑なに首を横に振る。
こういう御剣の自分に厳しいところも嫌いではないけれど、心配するこちらの身にもなって欲しいと思う。
「ああ、もう。お前ってホントに面倒くさいヤツだなぁ」
こうなれば実力行使するしかない。
成歩堂は御剣の背中を押すようにして、部屋の中へと招き入れる。御剣はあたふたと靴を脱いでいたが、半ば無視をして、強引に洗面所へと押し込んだ。
「ほら、さっさとシャワー浴びて。それとも僕が服を脱がせて、身体を洗ってあげないと駄目なのかな。ご希望とあれば、喜んでご奉仕するけど?」
「……そ、そのようなアレは」
途端に頬を染めて恥じらう御剣だ。
「だったら、自分でやってよね。着替えは用意しておくから」
成歩堂が外に出てドアを閉めると、御剣もとうとう観念したらしい。程なくして、シャワーの水音が聞こえてきた。
「今のうちに何か温まるもの……、お腹も空いているだろうし、スープとかリゾットくらいなら作れるかな」
冷蔵庫を開けて、あれこれと成歩堂が悩んでいると、こちらを呼ぶ御剣の声がする。
「あれ? もう出たの。お前にしてはずいぶん早いね」
言いながら、見上げた先には、何故かバスタオル姿の御剣が、所在無げに立っていた。成歩堂はあわてて駆け寄る。
「どうしたんだよ、そんな恰好で。余計に風邪引いちゃうじゃないか。着替え、気付かなかった? それとも僕の服じゃ気に入らないとでも?」
御剣は無言で首を横に振る。揺れた長い前髪からぽたぽたとしずくが落ちた。
「ああもう、髪もちゃんと拭いてない。世話が焼けるなぁ」
成歩堂がバスタオルを持ってきて、彼の髪をがしがしと拭いてやっている間も、御剣は借りてきた猫のように大人しかった。
「それから服も着てくれない? 僕の着古したスウェットで悪いけど」
成歩堂が手渡しても、御剣は首を横に振って、小さくつぶやく。
「……どうせ、すぐに脱ぐのだから」
その言葉に、成歩堂はようやく事態を理解した。
「だから僕がシャワーを浴びろと言ったと思ったの? とんだ誤解だよ。僕はお前の冷えた身体を温めたかっただけだし。それに遅刻した借りを返そうなんて思っているとしたら、それも不要だから」
「……しない、のか?」
「しないよ。弱みに付け込むようなことはしたくないからね」
「それでは……、私はどうすれば」
御剣は心底から途方に暮れている様子だった。
「お前が今しなきゃいけないのは、とにかく服を着て、温かいものを食べて、ベッドですやすや眠ることだ。今なら腕枕も付いてきてお得だよ」
「それでは私の気が済まない」
こうなってしまうと御剣は頑なだ。きり、と唇を噛みしめて、思い詰めたような表情で立ち尽くすばかり。
「……分かったよ。こうしていても風邪を引くだけだ。それじゃ、ベッドに行こう」
成歩堂の提案に、御剣もようやく従うことにしたらしく、寝室に入るとすぐに、バスタオルを取り去り、自分からベッドに横になる。
そこで成歩堂もまた服を脱ぎ捨てると、彼の隣に潜り込んだ。
「……成歩堂……っ」
その途端に、待ちきれないとでも言うかのように、御剣がぎゅっとしがみついてくる。
だが、彼の滑らかな肢体は、やはり冷え切っていて、情欲など欠片も感じられなかった。御剣が義務感あるいは罪悪感で、こうしているのは明らかだった。
成歩堂は彼の身体をやわらかく抱き留めながら、耳元でそっと囁く。
「無理しなくて良いから。今日はもうお休み、御剣」
「……嫌だ」
御剣は首を振って、子供のようにつぶやく。
「そうは言うけどね。こんな状態じゃ、その気になんてならないだろ?」
これだけ身体を密着させていれば、お互いの状況も手に取るように分かる。御剣はもとより、成歩堂も何の反応も見せていない。
「……そのようだな」
渋々うなずいた御剣だったが、思いついたように付け加える。
「だが、それなら何故、君は服を脱いだ」
「そりゃあ、お前は裸だったし。僕が服を着ていたら、触れた時に当たって痛いだろうと思ったからね。それにお前を温めてやりたいって言ったろ?」
「……そうか」
それきり、御剣は押し黙ってしまった。
それでも成歩堂のぬくもりに包まれているうちに、少しずつ御剣の身体も暖かくなってきたので、成歩堂は内心で安堵する。
仕事の後で疲れているだろうに、わざわざ来てくれた御剣に風邪を引かせてしまったら、あまりにも申し訳ない。
本当は何か食べさせてやりたかったが、せめてこのまま大人しく眠ってくれれば、休息にはなるだろうと思った成歩堂の期待を、御剣はあっさりと裏切った。
「本当に何もしないのか?」
成歩堂の身体をまさぐりながら、御剣は切ない目で訴えてくる。それだけで成歩堂の決心はぐらつきそうだった。
「誘われても、何もするつもりはないからね。あんまり煽らないで欲しいな」
「……そんなに私は魅力が無いだろうか」
「何言ってんの。お前のせいじゃないよ」
「だが……」
明らかに御剣は納得していない様子だ。
「まぁね。僕が17歳だったら、こんな状態で我慢なんて出来なかったかもしれないけど。もうイイ大人だからね。性欲の自制くらい出来るさ。それに……」
「それに?」
「はっきり言わせてもらうと、お情けで躰を差し出されて喜べるほど、僕は落ちぶれちゃいないよ」
きっぱりと言い切った成歩堂に、御剣の顔が険しくなる。
「どういう意味だ」
「そのままの意味さ。お前が約束を破ったことを申し訳なく思って、僕に躰を投げ出そうとしているなら、そんなの要らないって言ってるんだよ」
御剣は反論しない。つまりはその通りだということだろう。
「ずっと会えなくて寂しかった。だから抱いてくれ、と言われたら、僕だって考えたけどね」
「ずっと会えなくて」
「おうむ返しにしてもダメだから」
「ムう……」
真剣に悩んでいる様子の御剣がやけに愛おしく思えて、成歩堂は彼の頬にキスを落とした。
「あのさ、御剣。お前は約束を破ってしまったことを、ずいぶんと気にしているけど、元々そういう話だったじゃないか」
「……ん?」
「最初から守れない約束だって知りながら、お前は僕の言質を取ったんだろ。ただ僕を繋ぎ止めるために。約束という鎖で縛りつけておくためにさ」
「そうだ。そうしないと私は、君と会えない間、どうして良いか分からなくなってしまうから。どうしても約束が欲しかった」
御剣は素直にうなずく。
「だからね、そんなの僕だって覚悟の上だよ。前にも言ったけど、予定がダメになったら、また約束すれば良いんだ。いつでも僕はお前のためにスケジュールを空けておくから」
「君はそれで良いのか……?」
不安げなまなざしを向けてくる御剣に、成歩堂はやわらかく微笑む。
「もちろん。この程度のことで、お前を僕の元に引き止められるなら安いもんだ」
「私にそれだけの価値があると?」
「無いと思っているのかい?」
逆に問いかけてみると、御剣はかすかに頬を染めて、はにかみながら答えた。
「……あるのならば嬉しい」
「うわ、何その不意打ち。……参るなぁ」
とっさに目を逸らした成歩堂だったが、欲望に正直な肉体はあっさりと反応を示してしまう。
「……ム……?」
「えーっと、まぁ、その。……寝ようか?」
「明らかに寝られる状態ではないのは、君の方だろう」
「あははは……。ですよねー」
やはり御剣にもバレバレだった。
ずっと『抱かない』と格好をつけてきただけに、簡単にメッキが剥がれてしまったことが情けなく、恥ずかしかった。
それなのに御剣は容赦なく追い打ちをかけてくる。
「私はいつでも構わんよ。ずっとそのつもりだったのだからな」
打って変わって不敵な笑みを浮かべる御剣は、やはり見惚れるくらいに魅力的だった。当然ながら成歩堂が抗えるはずもない。
「……それじゃ、遠慮なく……。いただきます」
「好きにしたまえ。君のものだ」
何かが吹っ切れたように清々しい表情を浮かべる御剣に、成歩堂は圧倒されてしまう。
(……僕は永遠にこいつには勝てそうにないな)
心の中で白旗を掲げながら、御剣をきつく抱きしめる成歩堂なのだった……。
おわり
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