『 ハッピーバレンタイン 』



 それは、あくまでも偶然だった。

 二人の都合が良い日が、まさにたまたま「その日」だっただけのことで、お互いに何の意識もしていないはずだった。
 けれど……。
(あいつの周りの女の子たちは、がっかりしているだろうな)
 待ち合わせ場所で佇みながら、成歩堂は心の中で苦笑する。

 そう、今日はバレンタインデーであった。
 御剣は成歩堂と付き合っているけれど、公表は出来ないので、対外的にはフリーということになっている。きっと彼を狙ってチョコレートを用意した女性たちがたくさんいるだろうに。
 御剣自身は面倒事から解放されて、せいせいしているかも知れないが。

 それに引き換え、成歩堂は気楽なものだ。マヨイから小さな板チョコをもらったくらいである。
 だからといって、別にうらやましいとは思わない。それぞれの身の丈に相応しいプレゼントということだろう。心がこもっていれば十分だ。
(何よりお返しが楽だしね)
 成歩堂がそんな打算的なことを考えていると、ようやく御剣がやってきた。


「待たせて済まない」
「いや、僕も今来たばかりだよ。ところで、何も考えていないんだけどさ。これからどうする? 映画でも見に行くかい?」
 すると御剣は小さく首を振った。
「いや、買い物をしたいのだが、良いだろうか」
「もちろん。どこにでも付き合うよ」
「では行くとしよう」
 どうやら御剣には目当てのものがあるらしく、すたすたと歩いてゆくから、成歩堂も慌てて後を追った。

 程なくして二人は、デパート内の紳士服のブランド店にたどり着く。成歩堂でも知っているくらいだから、きっと有名なのだろう。
(高そうだなぁ……。さすがは御剣)
 成歩堂が居心地の悪さを感じながら、ぼうっとしていると、ふいに声を掛けられた。
「どちらが良いと思う?」

 御剣が両手に持っているのは、それぞれに上品な色合いのマフラーだ。
「そうだなぁ。どちらも良いデザインだけど、お前が付けるには地味すぎない?」
「ふむ、そうか。では君ならばどれを選ぶのかね?」
 反対に問い掛けられてしまった。

 成歩堂は悩んだ末に、シンプルな無地のマフラーを手に取る。
 何の模様も無くても、高級品らしく、それだけで存在感がある。それに、とても軽くて手触りが良いので、使い心地は良さそうだった。
「では、それにしよう」
 御剣は即決だった。


「え……、ちょ……っ」
 止める間もなく、御剣は精算に行ってしまったので、成歩堂はその背中をぼんやりと見つめることしか出来なかった。
「……良いのかなぁ」
 ふと気になって、そこに置いてあった同じものの値札を見てみれば、予想していた金額と一桁違っていた。

(……高……ッ)
 成歩堂のマフラーとはレベルが違う。それどころか、このマフラー1本で、成歩堂の全身のアイテムが揃えられるだろう。
 これでも御剣にとっては日用品なのかもしれないけれど。
 恋人同士とはいえ、対等な立場になれるのは、まだまだ先になりそうだ。

 基本的には能天気でポジティブ思考の成歩堂でも、このアンバランスな関係に忸怩たる思いを抱くことはある。地位も名誉も財産もない自分では、御剣に相応しくないのではないかと思うことも。
 御剣に会うために、必死に弁護士になった成歩堂だけれど、この先もずっと御剣の背中を追い続けてゆくのだろう。



(……不甲斐ないなぁ、僕は)
 ふう、と溜め息を落としたところへ、紙袋を手にした御剣が戻ってくる。
「どうかしたのかね?」
「いや、何でもないよ」
 成歩堂は慌てて笑顔を作った。ただでさえ情けない自分を感じているのに、落ち込んでいる姿など見せたくもない。
「……それならば良いが」
 御剣はあまり納得していない様子だったが、それ以上深く追及してくることはなかった。

 これ幸いと、成歩堂はあからさまに話題を変える。
「ところでさ、もうお前の買い物は終わったのかな。だったら、次は僕に付き合ってもらえるかい?」
「無論だ。どこに行くのかね」
「うん。せっかくだからワインで乾杯なんてどうかな? でも僕はあまり詳しくないから見立ててもらえると嬉しいんだけど。ついでにお手軽なお値段でお願いします」

 成歩堂の言葉に、御剣はくすっと笑う。
「心得た。では君の財布に優しいものを見繕うとしよう」
「ついでにつまみも買っていこうか。僕が何か作ってもいいけど」
「ここの地下には私の好みの惣菜も揃っているからな。買って行けば良い。たまには君も楽をしたまえ」
「寛大なご配慮、恐れ入ります」
 二人は顔を見合わせて、くすくすと笑う。


 そうしている間に酒屋に到着だ。といっても、もちろん成歩堂では足も踏み入れられないようなオシャレな店舗である。
「君の希望にはこの辺りが良いのではないかな。口当たりが良くて飲みやすい白にするか、お酒の苦手な君でも好みそうな甘口のスパークリングにするか」

「料理に合いそうなのは白かな。それにしても思ったよりも安いワインがたくさんあってびっくりしたよ。これなら僕でも気軽に買える」
「関税が掛からない国のものは、品質が良くても安いんだ」
「なるほどねー」
 いい勉強になったと思いながら、成歩堂は御剣がおすすめしてくれた白ワインを手にレジへと向かった。

(……ん、あれは……)
 それが目を惹いたのは、可愛らしいラッピングが色鮮やかだったからだろう。成歩堂はその小箱も手に取り、一緒に会計をしてもらった。
「お待たせ。もう腹ペコだし、早く帰ろう」

 早く帰って、ゆっくり二人でイチャイチャしたい、とまでは言わなかったが、御剣も成歩堂の意図を汲んでくれたようだ。
「それには私も同意見だ。では残りの買い物は手早く済ませるとしよう」
 実際の話、成歩堂はお茶漬けだろうが牛丼だろうが構わない。メニューにこだわっているのは御剣だけなので、彼が何やら高級そうな生ハムやチーズなどを買い求めていくのを、眺めているだけだった。


「到着……っと」
「やはり外は冷えるな」
「今夜は雪が降るかもしれないなんて言ってたしね」
 そんな会話を交わしながら、御剣の家にやってきた二人だ。
 家の中に入ると、すぐさま御剣は片っ端から電気を点けまくり、エアコンのスイッチを入れた。

 成歩堂はコートとジャケットを脱いで、代わりにエプロンを身に着ける。買ってきたものをきれいにお皿に盛りつけるだけの簡単な作業だ。とはいえ、これはこれでセンスが試されるので、芸術家肌の成歩堂としては凝りたい部分でもある。
 しかも御剣は料理を全くやらないくせに、高級で見栄えのする食器類はたくさん揃っているので、つい頭を悩ませてしまうのだ。

「うーん、やっぱりこっちの皿の方が良いかなぁ」
「どれでも同じだろう」
「お前は黙って。そっちでワインの栓でも抜いててよ」
「ひどい扱われようだな……」
 後ろから余計な口を挟んでくる御剣を無視して、成歩堂はオードブルを丁寧に並べる。テリーヌにはソースがついていたので、皿の周囲を美しい模様で飾った。会心の出来栄えに、成歩堂は深々とうなずく。


「こんなものかな」
 御剣が言われたとおりに大人しくワインを開けている間に、成歩堂は料理をテーブルに並べてゆく。皿も料理も豪華なせいか、まるでレストランだ。
「こんな昼間から、美味しい食事とワインが楽しめるなんて贅沢だね」
「まさに、その通りだな」

 御剣がグラスにワインを注ぐと、ますますテーブルが華やかになった。
「それじゃ乾杯しようか」
 成歩堂がグラスを持ち上げたところで、御剣が、ちょっと待てと言って、急に隣の部屋に行ってしまった。
「御剣……?」

「君がワインに酔って寝てしまう前に、渡しておかないとな」
 戻ってきた御剣が手にしていたのは、見覚えのある紙袋。それを、ほい、と手渡され、成歩堂はきょとんとする。
「えっと……」
「君のだ。自分で好きなものを選んだのだから、間違いはないだろう」
「もしかして、バレンタインのプレゼント……とか?」
「もしかしなくても、な」
 微かに頬を染めてはにかむ御剣に、成歩堂は胸が詰まりそうになる。

「うわあ、ありがとう。すごく嬉しいよ。でも、こんなに高いもの、良いのかな」
「そうでもないぞ。セール品だったからな」
「……そうですか」
 金銭感覚の違いが如実に表れてしまったが、どうやら御剣なりに気を遣った結果らしい。成歩堂が負担に感じない価格帯から選んでくれたのだろう。


「じゃあ、僕からもお返しに。ささやかだけど」
「これは……?」
「さっき酒屋さんで見かけてね。買っておいたんだ。ウイスキーボンボンだよ」
「そうか……。ありがとう」
 可愛らしくラッピングされた小箱を手渡すと、御剣は嬉しそうに微笑んだ。

「ではでは、改めて乾杯」
「乾杯」
 まるでキスするようにグラスをそっと触れ合わせると、チリンと軽やかな音が鳴る。揺れるワインが光を弾いて美しかった。
 成歩堂はワインを一口含んで感嘆の声を上げる。
「あ、飲みやすくて美味しい」
「調子に乗って飲みすぎるなよ」
「平気だって。どうせそんなに飲めないからね」

 成歩堂の言葉に、御剣は苦笑を浮かべている。その理由はすぐに分かった。
「この生ハム美味しいなぁ」
「ワインとの相性も良いようだ」
「これじゃ酒が進んじゃうね」
「だから言っただろう?」

「うん、飲みすぎないように気を付けないと」
「そう言いながら、もう二杯目だぞ」
「だって美味しいんだよ」
 成歩堂はへらりと笑う。自分でも酔っているという自覚はあるが、止まらなかった。
「明日、苦しむのは君だから、私は構わんがね」
 御剣の予言は見事に的中してしまうのだけれど、この時の成歩堂には、右から左にすり抜けてしまうだけだった。こんなに心地良く酔ったのは初めてかもしれない。


「せっかくだから、こちらも頂こうか」
 御剣が珍しく楽しげな様子でラッピングをほどいてゆくのを、成歩堂は浮かれ気分で見つめる。小箱の中にはボトルの形をしたウイスキーボンボンが5個並んでいた。
 その一つを手に取って、御剣が軽く歯を当てると、それだけでボトルが割れて、中の液体がこぼれそうになる。丸ごと口の中に放り込むのは行儀が悪いと思ったのかもしれないが、かえって口元や指先を濡らすことになってしまった。

「……ん……っ」
 どこか艶めかしい仕草で、御剣が指に付いた雫を舐め取るのも、成歩堂は微笑ましく見つめた。いつもならば、情欲を煽られていただろうけれど、今日はひたすら気分が良いばかりだ。
「美味しいかい?」
「ああ、良い酒を使っているようだな。それに外側のチョコレートも上品な味で、私好みだ」
「それは良かった」

「君も食べてみるかね?」
「え……? いや僕は……」
 成歩堂が逡巡している間に、御剣は自分の口にウイスキーボンボンを放り込むと、すかさず成歩堂の唇を奪った。
「……ぅ……」
 歯列の間から、とろりとした液体が流れ込んでくる。かなり強い酒らしく、喉に絡みつくような刺激があったけれど、どこか甘く感じられたのは別の要因だろう。

 成歩堂が酒を飲み干してしまっても、御剣の唇は離れなかった。淫靡に熱っぽく舌を絡めて、艶めかしい音を響かせる。
 酔いのせいか、快楽のせいか、頭がぼんやりして思考がまとまらなくて。成歩堂はただ御剣に求められるままに溺れるばかりだ。
「ん……っ」
 ゆるりと離れてゆく唇が惜しくて、成歩堂がうっそりと目を開けると、御剣の色素の薄い瞳が強い光を放ちながら、不敵にこちらを見つめていた。


「たまには、こうしてリードをするのも悪くないな」
「……酔ってなきゃ、やらせておかないのに」
「それは負け惜しみと言うのだよ」
 だから飲みすぎるなと言っただろう、と繰り返されて、成歩堂は少なからず落ち込む。それでも御剣はとても楽しそうにしているから、まんざらでもない気分だった。

「まだウイスキーボンボンは残っているが、食べるかね?」
「もちろん。今度は負けないからな」
 お互いに争うようにウイスキーボンボンを口に放り込み、同時にむさぼるようなキスを交わす。とろりと溶け合った、すでに酒なのか唾液なのかも分からない液体を、成歩堂は喉を鳴らして呑み込んだ。

(……甘いな……)
 甘露とは、まさにこういう味を言うのだろう。
 身体は火照って熱く、頭は痺れるように蕩けて、ずっとこうしていたいと思う。性欲に突き動かされるのではなく、ハチミツの海で溺れるようなまどろみだ。
 実際にも成歩堂は眠ってしまったらしく、それからの記憶が無い。


 目を覚ました時には、御剣のベッドで気持ち良く寝転がっていた。どうにか自分でここまでは歩いてきたということだろうか。
「うう……ん……」
「お目覚めかね?」
「あれ、御剣……。えっと、僕はどうして……」
 昨日の記憶が蘇ってくるのと同時に、成歩堂の頭に鈍い痛みが襲ってきた。それと耐えがたい不快感も。

「ううう、気持ち悪い」
「私の忠告を無視するからだ。自業自得だな」
「……分かってるから、そんなに良く通る声で責めないでよ。頭に響く……」
「それで? 起きられそうなのか?」
 御剣の問いに、成歩堂はゆるゆると身体を起こす。元気モリモリという訳にはいかないが、どうにか動くことは出来そうだ。

「まぁ、なんとかね。でもおはようのキスをしてくれたら、もっと元気になるんだけどな」
「……全く君という人は」
 御剣は呆れたような苦笑を浮かべながらも、成歩堂の首に手を回して、軽やかなキスを落としてくれた。昨日から御剣にしては珍しいほどのサービスだが、これもバレンタインの余韻だろうか。

「ありがとう、御剣。大好きだよ」
 そう言うと御剣も、成歩堂の二日酔いの頭に響かないような優しい声で、耳元でそっと囁いてくれた。
「……私もだ、成歩堂」
 そうして二人はもう一度、おはようのキスを交わすのだった……。


           おわり

 
読んで下さってありがとうございます。

珍しく季節ネタです。とはいえ一日遅れで申し訳ない。
何だかやたらと長くなりましたが、
その割にラブはあってもイチャイチャが無い、そんな感じ。
敗因はナルホド君が酔っちゃったからですね(苦笑)。

でも、こういうまったりしたのも、たまには良いかな。
エロは書くのにとても消耗するのですよ。
私自身も気力が充実している時でないと、
なかなかチャレンジ出来ないのでした。

2014.02.15

戻る     MENU