『 視線の先に 』



 最近、御剣の様子がおかしい。

 いや以前からも、自分一人で思い悩んでは、成歩堂の予期せぬ言動を取ったり、悩んだ末に斜め上の結論に達して、成歩堂を困惑させたりすることは、何度となくあったことだけれど。
 成歩堂が弁護士に復帰して、お互いに何の悩みもしがらみもなく、自由に会えるようになってからは、そんな御剣は見かけなくなっていた。

 深く刻まれた眉間のヒビは相変わらずだが、やわらかな空気を身にまとい、穏やかで満たされた笑顔を浮かべることが多かった。
 これまで、ずいぶんと長い廻り道をしてきたような気がするけれど、御剣の微笑みを見るだけで、成歩堂もまた幸せな気持ちになった。
 やっとここに辿り着いた、と思っていたのに。


 御剣の変化に気づいたのは、一週間前のことだ。
 主に御剣の仕事が忙しく、しばらく会えなかった隙間を埋めるように、会った瞬間からお互いに貪るような口付けを交わした。
「っふぁああん……っ、なるほ……ど……ぅ」

 御剣はそれだけで甘く切ない声を漏らしながら、濡れたまなざしでこちらを見つめ、成歩堂をますます高ぶらせた。
 そのまま二人でベッドになだれ込んで、いつものように激しくも熱い時間を過ごしたのだけれど。

 正確に思い返してみれば、あの日の翌朝から御剣は変わってしまったのだ。
 成歩堂が求めればキスを返してくれる。優しい微笑みも見せてくれるけれど、どこかよそよそしく、近寄りがたい壁のようなものを感じた。
 それはまるで御剣が掛けているメガネのように。

 たかがガラス一枚だったが、あれだけで視線が捉えづらくなる。御剣の長い睫毛がふせられると、何もかもを拒絶されているかのようだった。
 だがメガネを外せば、それで全てが解決する訳ではないだろう。
 メガネという鎧をまとって見えなくしているもの、御剣が隠そうとしていることが、間違いなく存在しているのだ。


「……ああ、僕は何をやっているんだ!」
 成歩堂は勢い良く立ち上がる。

 またあの過ちを繰り返す訳にはいかない。
 成歩堂が弁護士ではなくなっている間、御剣が一人でどれほど悩み苦しんでいたか、自分はよく知っていたはずなのに。
 もう二度と御剣を悲しませないと誓ったはずなのに、だ。

 成歩堂は携帯を手に取り、御剣に掛ける。
 今から会いに行ってもいいかと尋ねても、忙しいと断られた。
 数日前の成歩堂は、ここで引き下がっていた。
 それじゃ仕方がないね、仕事が忙しいのは分かるけど、あまり無理をするなよ、そんなことを言って。
 物分かりの良い大人のふりをして、実際は何も分かっちゃいなかった。


 だから成歩堂は、きっぱりと言い切る。
「一時間でも良い。顔を見るだけでも良いんだ。僕はお前に会いたい。どうしても今夜は会わなきゃいけないんだ。だから行くよ。今すぐに」
 御剣の都合なんてお構いなしの、強引で図々しくて勝手な言い分だ。

 だが御剣が成歩堂とほんの少しでも会えないくらいに、どうしようもなく忙しいのだとしたら、彼は正直に言うはずだ。
 あるいは連日の激務で疲れ切っていて、今日は時間が合っても会いたくはない、という場合でも。
 御剣は遠慮なくそう言うし、成歩堂も納得できることだった。
 けれど……。

『……分かった、待っている』
 御剣が苦悩に満ちた声で答えた時に、成歩堂は確信した。
 やはり自分は避けられていた。忙しさを言い訳にして、御剣は成歩堂から距離を置こうとしていたのだ、と。
 その理由は分からなかったが、会って問い詰めるより、他にない。


 はやる気持ちを抑えながら、御剣の家に向かう。
 成歩堂は美味くも不味くもないラーメンで夕食を済ませてしまっていたが、御剣はちゃんと食事は取っているのだろうか、などと余計なことばかりを考えながら。

 御剣の部屋のドアベルを鳴らすと、程なくして彼がドアを開ける。一見して不審なところは見当たらない。
 すでにシャワーを浴びた後なのか、ラフな部屋着姿だった。とはいえ、御剣にしてはリラックスした服装という意味であり、成歩堂だったら、これでコンビニくらいは行く恰好ではあるが。

「夜遅くにいきなり、ごめんね」
「いや、構わない。入りたまえ」
 御剣が背を向けると、艶やかな濡れた髪から、ほのかにシャンプーの香りが漂ってくる。
 成歩堂は思わず背後から抱きしめて、その髪に顔を埋めたくなったが、そんなことをしに来たのではないと必死に堪えた。

 御剣は『そんなつもり』だったのかもしれないけれど。
 シャワーを浴びて待っていたということは、成歩堂がいきなり訪ねて来た意図も、ある程度察した上で、うやむやにしてしまいたいのではないか。
(さすがに考え過ぎかな……)
 御剣の言動の一つ一つを、つい深読みしたくなってしまうのは、職業病だろうか。


 何か飲むか、という御剣の誘いを丁重に断って、成歩堂はリビングのソファに腰を下ろした。
 そして単刀直入に言う。
「御剣、何か僕に隠していることはないかい?」
「心当たりはないな」

 メガネの向こうの美しい瞳は、真っ直ぐにこちらを見つめている。その言葉に嘘はなさそうだった。
「でも最近のお前、明らかに僕を避けているよね」
「……ム」
「気付いていないとでも思った? 甘いよ、御剣」
 僕がお前に関することで、気付かないはずなんてないだろう? そう言って不敵に笑ってやると、御剣の表情があからさまに変わる。

「き……、君の、君のそういう所が、私は……っ」
 ようやく引き出せた御剣の本音に、成歩堂は微笑んだ。
「うん。何だい、御剣」
「……何でもない」
 失言を悔やむように唇を噛みしめて、御剣は目を逸らす。そうやって自分で何もかも抱え込んでしまうのは、彼のクセのようなものだけれど。


「それはダメだって言っただろう?」
 全身で拒絶を示す御剣に構わず、成歩堂は手を伸ばす。頬に指先が触れただけで、彼はびくりと身体をすくませるが、半ば強引に顔をこちらに向かせた。
「もう昔とは違うんだ。お前も僕に遠慮なんかしなくていいし、言いたいことがあったら何でも言ってほしい。僕たちは長い時間をかけて、やっと何でも打ち明けられる関係になった、と思っているんだよ」

「成歩堂……」
 メガネ越しの瞳が不安げに揺らめく。
 成歩堂はここでようやく二人の間を阻んでいたものが何だったのか、理解した。
「邪魔だな」
 成歩堂が少々乱暴な手つきで彼のメガネを奪い取ると、御剣はハッとした表情でこちらを見返す。

 が、すぐに長い睫毛に縁取られたまぶたをそっと伏せた。
 それはまるでキスをねだるかのような仕草だったが、無論そんなはずはない。
「こっちを見てよ、御剣。僕の目をちゃんと見て」
 御剣は無言でかぶりを横に振る。

「どうして? 何か後ろめたいことでもあるのかい?」
 やはり御剣は首を横に振った。
「それじゃ、もう僕の顔なんて見たくないくらいに、嫌われてしまったということかな」
「違う、私は……っ」
 ハッと顔を上げた御剣は、こちらを見つめる色素の薄い瞳が、まるで宝石のように美しかった。


「やっぱりその方が、ずっとイイね」
 成歩堂の言葉に、御剣はなめらかな頬を赤く染める。まるで少女のような反応に、成歩堂の胸は高鳴った。
「ここでさ、お前にキスして全部奪って。一時的に忘れてしまうのは簡単だけれど。僕はもう、そういうのは嫌なんだよ。お前の話を聞かせて欲しい、御剣」

 成歩堂の言葉に、御剣はとうとう陥落した。居心地が悪そうに視線を彷徨わせながら、おずおずと口を開く。
「正直に言うと、私は君を避けていた訳ではない。ムロン隠し事をしている訳でもない。ただ……、何となく会いたくなかったんだ」
「あの……、それが一番傷付くんだけど」
「ム? そうだろうか」

「そうだよ。特に理由もないけど会いたくない、なんてさ。嫌われたり憎まれたりした方がよっぽどマシだよ」
 成歩堂は一気に奈落の底に叩き落されたような気分だった。がくりと肩を落とす成歩堂をあわれに思ったのか、御剣は慌てた様子で言い添える。

「これは君に非があるのではない。あくまでも私の問題で、気の持ちようというか、心の準備が必要というか、その……」
 どうやら本人にも上手く説明できない状態のようだ。
「僕の言動の何かが、お前を不安にさせているのかい?」
 成歩堂の問いに、御剣はあいまいにうなずく。
「そうとも言えるし、そうではないとも言える」


「それじゃ分からないよ。僕のどこが悪いのか、ちゃんと言ってくれないとさ」
「君に落ち度はないと言っている」
「じゃあ、何が問題なんだよ」
 焦れた成歩堂の語気が荒くなる。決して怒鳴っているのではないが、含まれている怒りは感じ取ったのだろう。

 御剣は小さな声でつぶやくように、答えを口にした。
「君の……、目が」
「目?」
「そうだ。私を見つめる時の君は、いつも真っ直ぐなまなざしで、何もかもを見透かしているかのようで、居たたまれない気分になる。そうやって自分をさらけ出すのを恐れてしまうのは、私が歳を取ったからなのだろうか……」

 成歩堂は首をかしげた。
「えっと、それはお前が歳を取ったから、顔のシワとか肌の衰えとかを見て欲しくない、ということなのかな?」
「全く違う。……いや、多少無いことも無いか」
 御剣は小さくため息を吐いた。


「君は私のことを、きれいだの可愛いだのと言うが、このまま歳を取っていき、容色が衰えた時には、私に幻滅してしまうのではないかと、不安になることはあるな」
「そんなはずないだろう? たとえ80歳のおじいちゃんになっても、僕にとっての御剣は可愛い御剣だよ」
「……そうか。それならば良い」

 御剣は頬を染め、はにかんだ笑みを浮かべる。その姿はたとえようもなく愛らしかった。
 そういえば、以前に会った時にも、自分の年齢を気にしていたようだったけれど、これを見る限りでは、そんな心配は全く無用だ。
「やっぱり可愛いなぁ、御剣は」
「な……っ、君はまたそういうことを」

「うんうん。そうやってね、すぐに慌てるところなんて、ますます可愛いけどさ。生憎、今日はそれで誤魔化されはしないから」
「ム……」
 実はかなり誤魔化されそうな状態だったとは口にせず。
「僕の目を避ける理由が、年齢のことじゃないのなら、何なんだい?」


「先刻も言っただろう。見透かされるのが怖いのだ、と」
「でも僕は何も変わっていないよ。それを気にするお前の側に、何か理由があるんじゃないの?」
 成歩堂の言葉に、御剣はうなずいた。
「そうだな。昔の私ならば、君に見つめられることを嬉しく感じていただろう。君の真っ直ぐなまなざしも心地良く思っていた。けれど、それは『日常』ではなかったからなのだ、きっと」
「日常……?」

「ずいぶん長いこと、君と自由に会えない日々が続いていたから。君との逢瀬の時間は、私にとっては雲に乗ってふわふわと浮かんでいるような、夢の中のような心地だったんだ。それが今は……」
「ああ、そういうことか」
 成歩堂はうなずく。
「まぁ確かに、浮かれている時には気付かないけれど、後からハッと我に返って恥ずかしくなることって、あるよねぇ」
「そのような感じだな」

 御剣はようやく分かってもらえた、と満足そうな笑みを浮かべているが、これで終わりにされては、成歩堂が困ってしまう。
「でもさ、御剣。そこは慣れてもらわないと。これからも僕たちはおじいさんになっても、ずっと一緒にいることになるんだから」
「ムぅ……」
「それにそもそも、見つめられて恥ずかしいから距離を置きます、なんて言われて納得できる男なんて、この世にはいないよ」


「だ、だから……、心の準備を」
「却下。慣れるためには、逃げてたらダメだって、お前も分かってるだろ?」
「…………」
 とうとう御剣は無言になってしまった。視線は不安げに彷徨い、成歩堂の手にしている彼のメガネに向けられる。

「僕と会う時は、当分メガネは禁止ね。ということで、これは没収」
「な……、成歩堂……っ」
 途端にあたふたし始める御剣に、成歩堂はくすりと微笑む。
「大丈夫だよ、すぐに馴らしてあげるから」
「……どことなく不穏なニュアンスが含まれていたような気がするのだが」
「気のせい、気のせい」

「ムぅ……」
 眉間のヒビを深くする御剣の頬を、ちょんと指で突いて、成歩堂は悪戯っぽくささやいた。
「じゃあ、まずはキスの練習からしようか。もちろん目を閉じたらダメだよ」
「え……」

 戸惑う御剣に構わず唇を奪うと、二人の視線がたどたどしく絡み合う。軽くついばむようなキスを続けているだけで、御剣の瞳の中に快楽の証が見て取れるようになった。
 その美しい宝石に吸い込まれそうになりながら、成歩堂は御剣に愛されている喜びを、しみじみと実感するのだった……。



                  おわり



 
読んで下さってありがとうございます。

ダラダラと長い割には中身が無いというか、
イチャイチャが足りない感じですね。
申し訳ない。

どうも気が緩むと、
文章が冗長になってしまいます。
この悪癖は治りませんなぁ。

今回も久しぶりに書いたせいで、
勢いで一気に仕上げたは良いものの、
私の趣味がそのまま反映され過ぎて、
読みづらくなってしまいました……。

精進しないといけませんね。
次はもっとイチャラブ頑張ります。

2015.10.16

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