『 ふわふわパンケーキ 』



「……ん……」
 成歩堂が目を覚ますと、傍らの御剣はまだ気持ち良さそうに、すやすやと眠っていた。
 もうすぐ起きる時刻ではあるが、身動きすると御剣を起こしてしまうかもしれない。それに何よりも愛しい恋人の寝顔をじっくり見られるチャンスを逃す成歩堂ではなかった。

 暗闇が苦手な御剣のために、いつも点けてあるベッドサイドのランプがほのかに御剣の白い肌を照らしている。滑らかな頬の上に長い睫毛の影が落ちて、息をのむほどに美しい。
 それでも眉間のヒビが無いせいか、どこかあどけなく可愛らしく見えた。

(これなら何時間でも見ていられるな)
 成歩堂がしみじみと幸せを噛みしめていると、無情にも目覚まし時計のベルが鳴る。軽やかな電子音が寝室の中に響いたと思ったら、すぐに御剣は手を伸ばして止めてしまった。
「おはよう、御剣」
 成歩堂はすかさず声を掛ける。


 けれど御剣は一向に起きる気配が無い。目覚ましを止めたのは半ば無意識だったようだ。
(えっと、良いのかな、これ……)
 成歩堂としては、このまま御剣の寝顔を眺めていても構わないのだけれど、これで御剣が遅刻することになれば、『何故起こしてくれなかったのだ』と責められるのはカクジツだ。

 昨夜は思いきり啼かせてしまって、疲れているはずの御剣を起こすのは忍びなかったが、それで怒られるのも何だか悔しい。
 という訳で、成歩堂は涙を飲んで実行することにした。
「おい御剣、もう起きないと遅刻するよ」
 ちょっと強めに肩を揺さぶると、御剣はむにゃむにゃと寝言を言いながら、成歩堂の身体にしがみついてくる。
「……あと5分……」

「ちょ……っ」
 その可愛すぎる仕草に、成歩堂の決意は一瞬で折れそうになった。
 いやもういっそのこと今日は休みにして、このままずっとイチャイチャしていれば良いんじゃないのか、と悪魔がささやいてくるけれど。
「ダメだよ、御剣。ほら起きて」
「いやぁ……」
 御剣は成歩堂に抱きついたままで、いやいやと首を振る。可愛いというよりも、これではまるで幼い子供のようだ。


 さすがの成歩堂もこれには違和感を覚える。
 普段の御剣もあまり寝起きが良い方ではないが、ここまで子供っぽい駄々をこねるのは初めてだ。明らかに様子がおかしい。
 だが成歩堂は、御剣が精神的にもろいことを知っている。それでも自分一人で何もかも抱え込んでしまうことも。

(また参ってるのかな……?)
 誰しも甘えたい日があるだろうし、逃避したいこともあるだろう。それを御剣が素直に成歩堂に見せてくれるようになったのならば、決して悪いことではない。
「分かった、分かった。それじゃ、あとちょっとだけだよ。僕は朝食の支度をしてくるからね」

 ぽんぽんと御剣の背中をなだめるように叩いて、成歩堂がベッドから出ようとすると、御剣がいきなり顔を上げた。
「……どこ行くの」
「え……?」
「やだ、行っちゃやだよ。一人にしないで」

「御剣……?」
 困惑する成歩堂に構わず、御剣はぎゅっとしがみついてくる。
「やだやだ、行かないでよ、成歩堂」
 目に見えて御剣の様子は異常だったが、もちろんこれを振り払うことなど出来はしない。


 成歩堂はそっと御剣の身体を抱きしめて、耳元で言い聞かせるように優しくささやく。
「大丈夫だよ、御剣。僕はずっとお前の傍に居るよ。どこにも行ったりしない。ちょっとキッチンに行くだけだからね。すぐに戻ってくるよ」
「……ほんと?」
 御剣はあどけないまなざしで小首をかしげる。
「本当だよ。僕の言うことが信じられない?」

 すると御剣はふるふると首を横に振った。
「うん、いい子だね。大好きだよ、御剣」
 頬に軽いキスを落としてやると、御剣はくすぐったそうに肩をすくめ、はにかみながら小さく答える。
「私も大好きだ、成歩堂」
「ありがとう。それじゃ、そろそろ起きようか。御剣も顔を洗ってきたらどう? きっと目が覚めるよ」
 成歩堂の言葉に、御剣はこくりとうなずいた。

 そしてベッドから起きだして、ぺたぺたと歩いていくが、もちろん一糸まとわぬ姿だ。普段の御剣ならば、こんなことは有り得ない。
(うーん、まぁイイか)
 教えてやろうと思ったけれど、ついしなやかな肢体に見惚れていたので、言いそびれてしまった。思わず成歩堂はにまにまとしてしまう。
 だが、御剣の様子がおかしいのは事実だ。


(……そういえば)
 成歩堂はふと昨夜は地震があったことを思い出す。
 寝入りばなだった成歩堂はすぐに目を覚ましたのだが、御剣は激しい行為の後だったせいか、穏やかに眠ったままだったので安心していたのだけれど。
 もしかしたら御剣は夢の中で苦しんでいたのかもしれない。その悪夢に引きずられて、そのまま子供のイメージから抜け切れていないのだろうか。

 だとすれば一時的なものだろうし、成歩堂のことは認識していたから、それほど深刻なものではないかもしれないけれど。
(希望的観測にすぎるかな……)
 もしもこれが何度も繰り返すようなら、医者に相談した方が良いだろうか、などと成歩堂がぼんやりと考え事をしていると、いきなり御剣が慌てた様子でドタドタと戻ってきた。

 どうやらトイレに入っていたらしく、ドアは開けっぱなしで、盛大な水音が彼の後ろから聞こえてくる。
「どうしたの?」
 成歩堂が苦笑を浮かべながら尋ねると、御剣は大真面目な顔で答えた。
「成歩堂、どうして私はハダカなんだ」

「ええっと、覚えていないのかな?」
「ない」
「あーうん、そうだね。きっと昨夜は暑かったから、寝ているうちに脱いじゃったんじゃないかなぁ、あはは」
「ム……?」
 成歩堂の下手な言い訳は全く信じていないようだったが、ベッドサイドに脱ぎ捨ててあったパジャマを渡してやると、御剣は素直に身に着けた。もちろんそれが成歩堂の手によって剥ぎ取られたものだとは知らずに。


「成歩堂もハダカだな」
「え?! そ、そう。暑かったからね!」
「ふうん」
 御剣の視線を痛いほどに感じながら、成歩堂も慌てて服を身に着ける。そこへ、ふいに御剣の腹が、くうー、と可愛らしい音を立てた。
「お腹すいた」
「あはは、そうだね。それじゃ朝食にしようか。トーストで良いかい?」

 何気なく尋ねた成歩堂に、御剣は即答する。
「やだ」
「え……」
「パンケーキが良い。メープルシロップをたっぷり」
「ええ……っ、そんないきなり?!」
「ダメか?」
 しゅんと悲しそうにうなだれてしまう御剣を見てしまっては、駄目だなんて言えるはずもない。

「良いよ、ちょっと材料を探してみるから、待ってて」
「分かった」
「えーっと、小麦粉に卵に牛乳……。メープルシロップなんてあるかなぁ。そういえば最近、あいつ朝食のグラノーラにかけて食べてたっけ。あった、あった」
 戸棚や冷蔵庫をバタバタと開けて、成歩堂はどうにかパンケーキの材料を探し出した。


「材料あったよ。それじゃ作っている間に、紅茶……じゃなくて、ホットミルク飲んで、待っていてくれる?」
 どうやら今の御剣は、味覚まで子供になっているようだから、紅茶よりもホットミルクの方が良いだろう、と砂糖をたくさん入れた牛乳をレンジでチンして出してやると、御剣は嬉しそうに微笑んだ。

 マグカップをふーふーしながら、恐る恐るホットミルクを口にしている御剣を、このまま眺めているのも楽しそうだったが、成歩堂は仕方がなくパンケーキ作りに取り掛かる。
「あんまり作ったことないんだけどなぁ……」
 ずいぶん前に真宵や春美にねだられて作ってやったことがあるので、その時の記憶を必死に思い出しながら、どうにか完成させた。

 こんがりとキツネ色に焼けたパンケーキを三枚重ね、一番上にはバターを乗せて、全体にメープルシロップをたっぷりと掛ける。見た目はかなり豪華で美味しそうだ。
「よし、こんなもんだな」
 テーブルの上に出してやると、御剣の顔もぱあっと明るくなる。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」

 成歩堂の返事を待ちきれない様子で、ナイフとフォークを上品に操り、切り分けたパンケーキを口に入れた瞬間、御剣は何とも言えず幸せそうな表情を浮かべた。
 それを目にしただけで、成歩堂も嬉しくなる。苦労をした甲斐があるというものだ。


 あっという間に一枚分を平らげてしまった御剣は、ふと気が付いたように尋ねてきた。
「成歩堂は食べないのか?」
 もそもそとトーストをかじっている成歩堂を気にしてくれたらしい。
「うん、僕はこれで良いよ。あんまり甘いのは得意じゃないんだ」
 というよりも自分の分まで焼いている余裕が無かったからで、いつもは 成歩堂もトーストにジャムをたくさん乗せて食べるくらいには甘党だったりするのだけれど。

(さすがにあれは甘すぎるよな……)
 見ているだけで胸やけを起こしそうなパンケーキが、御剣の腹の中に収まってゆくのを眺めつつ、成歩堂はインスタントコーヒーでトーストを流し込む。
 やがて御剣が満足そうにパンケーキをきれいに平らげてしまう頃には、成歩堂もささやかな朝食を終えた。

「ごちそうさまでした」
 子供であっても御剣は礼儀正しい。ナイフとフォークもきちんと皿の上に揃えて並べてある。
 それなのに、頬にパンケーキの欠片がくっついているのが微笑ましかった。


「あはは、御剣。顔が汚れてるよ。拭いてあげるから、こっち向いてごらん」
 ティッシュを手に、御剣のおとがいを上げると、無言で御剣は大人しく従った。そして何故か、そのままそっと目を閉じる。
(うわ、ヤバい……っ)
 まるで食べてくれ、と言わんばかりの光景に、成歩堂は思わず生唾を飲み込んだ。

 いたいけな少年にイタズラをするおじさんになった気分だが、どうしても衝動を抑えることが出来ない。
(……御剣、ごめん)
 心の中で精一杯謝りながら、成歩堂は御剣の頬に付いたパンケーキを舌で舐め取り、そのまま愛らしい唇も塞いでしまう。

 が、意外にも御剣はさしたる抵抗を見せない。
 それどころか、条件反射で身体が反応したのか、唇を開いて成歩堂の舌を迎え入れてくれるから、成歩堂もつい調子に乗ってしまった。
 熱っぽく舌を絡め、口腔内を舐め回し、唾液を注ぎ込む。いつもよりも甘く感じたのは、パンケーキのメープルシロップのせいだけではないだろう。

 朝の挨拶には少々情熱的なキスを終えると、御剣が切ない吐息をこぼした。
「っふぁ……ん……」
「あ、ご……、ごめん。ちょっとやりすぎた」
 慌てて成歩堂が謝ると、御剣はうっそりと目を開けて、色素の薄い瞳をこちらに向ける。


 そして、いつも以上に眉間のヒビを深くして、ぼそりとつぶやいた。
「口の中が甘ったるくて気分が悪い」
「お前がメープルシロップたっぷりにしろって言ったんじゃないか」
「……私が?」
 御剣はきょとんとしている。
 どうやら元に戻ったらしく、その時の記憶も無いようだった。

(眠り姫は王子様のキスで目を覚ます……か)
 メルヘンチックなことを考えながら、成歩堂は苦笑を浮かべる。
「うーん、まぁ寝ぼけてたんじゃない?」
「ム……?」
 明らかに御剣は納得していない様子だったが、成歩堂はごまかすように軽いキスを落として、壁の時計に指を向ける。

「ところでさ、急いで支度をしないと間に合わないんじゃないかな、御剣」
「何……、どうしてこんな時間なのだ。いつもの時刻にちゃんと起こしたのだろうな、成歩堂」
(……そりゃあ、のんびりパンケーキ焼いてたりしたからねぇ)

 結局怒られてしまう理不尽さに悲しみを覚えつつも、成歩堂はあいまいな微笑みを浮かべるだけだ。
 慌てて洗面所に向かう御剣の背中を眺めながら、いつもの御剣が戻ってきたことに一抹の寂しさと、かなりの安堵を覚える成歩堂なのだった……。


           おわり

 
読んで下さってありがとうございます。

ほのぼの可愛いタイトルになっていますが、
内容は良く考えると可愛いどころじゃない感じ。
御剣さん、カクジツに病んでますよね、これ……。
身体は大人、頭脳は子供ってことですね(苦笑)。

とはいえ、御剣さんには何の自覚もありませんので、
悩むのはナルホド君だけですね。
たまには彼にも悩み苦しんでもらいましょう。
少なくとも罪悪感はあるでしょうしね。

でも、例えば夜の最中に地震が起きたりして……。
御剣さんが再発したら、シャレになりませんな。
想像すると怖いことになりそうですし。
あまり深く考えない方向でお願いします。

2014.05.18

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