「僕のことを怖いって、前にもそんなこと言ってたよね。僕と初めてキスした後、僕と真っ直ぐに向き合うのが怖くて逃げ出したと言っていた」
「そうだ」
御剣はうなずく。
「今回もそれと同じことかな。だから僕の前から姿を消した?」
「いや、違う」
御剣は今度は首を横に振った。
「あの時の私は自分を疫病神のように思っていた。だから、私と付き合うことで、君を私の運命に巻き込みたくなかった。君を不幸にしたくなかったんだ。だが、今回は……」
「今回は?」
成歩堂に促され、御剣は言葉を継いだ。
「君は私を暗闇から救い出してくれた。私に優しくしてくれて、私を心から愛してくれた。私は君と一緒にいて、とても幸せだった。こんな日々がずっと続けばいいと願っていた。いや、きっと続くだろうと思っていたんだ」
「でもその幸せを放り出したのはお前だろう?」
御剣は小さくうなずいた。
「……君は、あの夜、悪夢を見た私を優しく抱きしめてくれた。ずっと髪を撫でていてくれた。君の鼓動を聞きながら眠りに落ちてゆくのは、本当に幸せな時間だった。あんなにも心穏やかに安眠できたのは、初めてのことだった」
「そういえば、朝になっても、もうちょっと、って駄々をこねてたよね。あの時のお前はすごく可愛かったな」
成歩堂がいたずらっぽく笑う。御剣は思わず頬を染めた。
「そうだっただろうか。記憶にないな」
「素直じゃないんだから」
成歩堂にからかわれ、御剣はごまかすように咳払いをする。
「話が逸れてしまった。とにかく私が何を言いたかったかというと」
「うん」
「つまり、私は君が思うほどに強い人間ではないということだ。いつでも何かに、誰かに依存して、自分をどうにか保っているところがある。だから……」
御剣の言葉に、成歩堂がうなずく。
「今度は僕に依存するんじゃないかと思った?」
「依存なんて生易しいものではない。私は君が居なくては生きてゆけなくなる。そんな予感がしたんだ」
こんなことを言ったら、成歩堂は逃げ出すかもしれない。そこまで面倒見きれないと、放り出されても仕方がない。
そもそも、そうやって成歩堂に捨てられることを恐れて、自分から逃げ出してしまったのだから。
すると成歩堂は、御剣を驚いた目で見つめて、ふいに弾けるような笑顔を浮かべた。
「素晴らしいね」
「……何?」
「僕が居なくちゃ生きてゆけない? それほど愛されるなんて、最高じゃないか。お前が何をそんなに悩んでいるのか、僕にはちっとも分からないよ」
事もなげに言ってのける成歩堂に、御剣は呆れるばかりだ。
「……君は、私の言っていることを、ちゃんと理解しているのか。私は私自身の全てを君に背負わそうとしているんだぞ。それを重いと感じないとでも?」
「お前の全てが僕のものになるというのなら、そのくらい軽いもんだよ。いくらでも背負わせてくれたら良いさ。僕は喜んで受け取るから」
「成歩堂……」
御剣は言葉が出なくなった。
彼のこういう器の大きさには慣れているつもりだったが、どうやら見誤っていたようだった。まさか、こんなにも底知れないとは。
「私は……、君の傍に居ても良いのか……?」
「当たり前だろ。もう僕はお前を手放すつもりなんてないから」
御剣はうつむき唇をかみしめる。どうして良いか分からなかった。
成歩堂は相変わらず、包み込むように微笑んでいる。
ふいに御剣はあの夜のことを思い出した。彼の腕の中で、心地良い眠りに落ちた日のことを。
あのぬくもりが欲しかった。優しく抱きしめて、髪を撫でて欲しかった。
きっとこのまま彼の胸に飛び込めば、それは簡単に手に入るのだろうけれど。
自分勝手な理由で彼の元を去り、裏切るような真似をして彼を傷付けた御剣に、そんなことが許されるとは思えなかった。
成歩堂が許してくれたとしても、御剣自身が自分を許せなかった。
「だが……、私は……」
「また僕から逃げるのかい?」
成歩堂の言葉に、御剣はハッとして顔を上げる。
「お前は肝心な時には、そうやって僕から逃げてばかりだよね。自分が傷付くことが怖い? それとも僕を傷付けるのが怖いのかな。どちらにしろ、僕にとって何よりも恐ろしいのは、お前を喪うことなんだって、そろそろ理解して欲しいんだけどな」
「あ……」
「おいで、御剣」
成歩堂は立ち上がり、両手を広げた。彼の青いスーツが目に眩しくて、御剣はまたも泣いてしまいそうになる。
(ああ……、この男には敵わない)
これまでにも一度も勝ったと思ったことはなかったけれど。清々しいほどの敗北感に包まれながら、それでも御剣は幸せだった。
堪らずに、御剣は成歩堂の胸の中に飛び込む。成歩堂の大きな手のひらで優しく受け止められながら、御剣はまるで自分が幼い子供になったような気がしていた。
「愛してるよ、御剣」
「私もだ、成歩堂」
自然と二人の唇が出会い、甘いキスを交わす。
切ない吐息をこぼして、御剣が成歩堂の肩に顔を埋めると、彼は御剣の髪を弄びながら、苦笑混じりの声でつぶやいた。
「……今日は別れ話をすると思ってたんだけどな」
「え……?」
御剣が顔を上げると、成歩堂はすかさず軽やかなキスを頬にくれた。
「そんなに不安そうな顔しないでよ。僕が別れ話を切り出す訳じゃない。その逆だよ。お前が僕に別れ話をするために呼び出した、と思っていたんだ」
「私が……?」
もちろん御剣にはそんなつもりは無い。むしろ成歩堂から、別れようと言われても仕方がないとは思っていたけれど。
「そうだよ。お前がどんな状況だったか、僕もある程度はイトノコ刑事から話を聞かされていたからね。お前が何もかも嫌になって逃げ出しても無理もないと思った。
でもお前は僕に何も言わずに居なくなって、またこうして戻ってきてさ。平然と連絡をしてくるんだから。もうお前に僕は必要ないんだなって気がしたんだよ」
「違う、そんなつもりでは……」
「でもさ、僕がどんなに何度も何度もメールや電話をしても無反応だったのに、急にお前の方から呼び出すなんて、別れ話だとしか思えないじゃないか」
そう言われれば、そうかもしれない。だとすれば、あれほどまでに成歩堂がピリピリと張りつめた空気を発していたのも当然だ。
「それにお前は開口一番、僕に謝ろうとするしさ。トドメが『大切な友人』ときたもんだ。もう本当にこれで最後なんだと思ったよ」
「う……、すまなかった」
怒涛のように畳み掛けられて、御剣は恐縮するより他にない。そもそもすべて悪いのは御剣の方なのだから。
すると成歩堂は、くすくすと笑う。
「バカだな、もう怒ってないよ。お前がどんなに僕のことを愛してくれているか、イヤってほど教えてくれたからね」
どうやら成歩堂は、御剣が『成歩堂なしでは生きてゆけない』くらいに好きだと言ったことが、よほど嬉しかったらしい。
御剣としては、それは別れの理由にこそなれ、復縁の理由になどなるとは思えなかったのだけれど。人の価値観はそれぞれということか。
「君は……、何というか物好きだな」
「そうかな。まぁ確かに、面倒くさそうな人に惹かれてしまう性質だと、自覚はしているけどね。でもそこが楽しいんだから良いじゃないか」
「それが物好きだというのだ」
御剣がくすりと微笑むと、それを見計らったように成歩堂に唇をふさがれてしまう。もう余計なことは言うなという意味だろうか。
貪るような口付けではなく、ゆったりと舌を絡めながら、蕩けそうなほどの甘いキスをされて、御剣はその感触にただ酔いしれる。こうしているだけで絶頂に上りつめてしまいそうな幸福感だった。
「……っふぁ……ん……っ、成歩……堂……、もっと……っ」
切ない吐息をこぼしながら、御剣は成歩堂にしがみつき、何度もキスをねだる。成歩堂もそれに応えるように、優しい口付けを与えてくれていたのだけれど。
ふいに、意外なほどの力で身体を引きはがされて、御剣は戸惑う。
「……成歩堂?」
「ごめん、御剣。でももう限界だよ。半年ぶりだしね」
「そうだな、当然だ。ではベッドへ……」
「いや、その前にシャワーだろ。まずは僕がお前の躰を隅々まで洗ってあげるからさ」
「そ……、そのようなアレは必要ない」
その光景を想像して、頬を染める御剣だったが、もちろん成歩堂は許してはくれなかった。
結局、シャワールームで全身を成歩堂に弄られた御剣は、あられもない声を上げながら二度も達してしまい、その後もベッドで嫌というほど啼かされることになったのだった……。
「……明日は立てなくなるかもしれんな」
御剣がぼそりとつぶやくと、成歩堂は申し訳なさそうな声を出す。
「ホントにごめん。ここまでするつもりじゃなかったんだけど、何というか反動がね……」
成歩堂としては別れ話を覚悟して来たのに、思いがけないほどの熱烈な愛の告白をされて舞い上がってしまったというところか。
半年間ずっと会えなかった欲求不満もあるだろう。
それに何よりも成歩堂は、御剣を死ぬほど心配してくれていたのだろうし。
「私の方こそすまなかった。君には迷惑も心配も掛けてしまった。だから、このくらいで君の気が済むのならば……んぅ」
いきなりのキスで言葉を遮られた。
そして成歩堂は、あっさりと唇を離し、いたずらっぽく笑う。
「またお前はそうやって自虐的なことを言うんだからね。お礼だとかお詫びだとかで、身を投げ出されても嬉しくないって、前にも言っただろう? 良いんだよ、こういう時は余計なことは考えずに、ただ『幸せだな』って思っていれば」
「そうか……、そうだな」
何事も考えすぎてしまうくらいに悩む御剣からすれば、成歩堂はちょっと悩まなさすぎではないのかとは思うけれど。
幸福な時間に水を差すようなことを言うな、という成歩堂の気持ちは理解出来た。
「ああ、そうだな、成歩堂。私は今とても幸せだ。それだけで良いのだろう?」
「そうだよ。お前がそうやって幸福そうに笑ってくれていると、僕だって幸せなんだ。それでまたお前も幸せになってくれたら、何も言うことはないね」
「君が幸せなら、私も幸せだ」
ずっと自分にきつく絡み付いていた鎖が外れて、解き放たれたような感覚を御剣は覚える。心が浮き立つように軽やかだった。
今まで生きてきた中で、こんなに幸せな時間はないと断言出来るほどに。
無論、不安はある。
これほどまでに愛してしまった成歩堂を、もしも喪ったら。
明日も当たり前のように続くと思っていた日常が、些細なことで消え去ってしまうのを、御剣は何度も経験しているから。
この幸福もいつまでも続くはずはないと知っている。
それでも今だけは。このひと時だけは。
永遠というものが存在することを、無邪気に夢見ていたかった。
「成歩堂……、愛している」
御剣が成歩堂にぎゅっとしがみつくと、成歩堂は喉の奥で笑った。
「また切羽詰まった顔してる。ホントお前って悲観主義というか、マイナス思考だよねぇ。でも僕は、お前のそんなところも愛してるよ、御剣」
そう言うと、成歩堂はまるで子供をあやすような手つきで、御剣の髪を優しく撫でてくれた。その感触が心地良くて、御剣はそっと眠りに落ちてゆくのだった……。
おわり
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