『 邂逅……、そして 』

(9)



 その日、御剣は死刑宣告を受けるような気持ちで、彼の訪れを待っていた。

 時間に遅れたり、約束をすっぽかすような男ではないから、おそらく数分後には、ドアベルが鳴ることだろう。
 時計をじっと見つめながら、御剣はひたすら待ち続ける。永遠にも思えるような長さだったけれど、とうとう判決の時はやって来た。

 ピンポーン
 その呼び出し音に従って、御剣は無言でオートロックを解除する。画面の向こう側の男も何も言うことはなかった。名前すら。
 程なくして、またベルが鳴る。今度はドアベルだ。御剣は重い腰を上げて玄関へと向かう。

 このドアを開けたら、即座に殴られるかもしれないと覚悟をしながら、御剣は恐る恐るノブを回した。
 御剣の心を反映したかのように手ごたえは重く、ドアは軋んだ音を立てて、ゆっくりと向こう側に立つ男を迎え入れるために開いてゆく。


 彼の姿を目にした瞬間に飛び込んできたのは、鮮やかな青い色。離れていたのは、せいぜい半年くらいだというのに、それがひどく懐かしくて、涙がこぼれそうだった。
「………成歩堂」
 掠れた声で、御剣がようやく男の名を口にすると、成歩堂は表情一つ変えずに、淡々とした口調で言葉を紡いだ。

「久しぶりだね。まさか、お前の方から呼び出しの電話があるとは思わなかったよ。こうして、のこのことやって来る僕もどうかしていると思うけどね」
 おそらくは皮肉、そして自嘲なのだろうが、彼の顔には怒りも悲しみも見られない。
 そこにただ存在しているのは、御剣にはもう何の関心も無くなってしまったかのような、冷ややかなまなざしだけだった。

 御剣は何も言うことが出来ず、打ちひしがれて背を向けるしかなかった。
 そのまま背後でドアが閉められることも覚悟の上だったが、成歩堂の靴音は御剣家の玄関の中へと入ってきてくれたことに心から安堵した。
 御剣が奥へ進むと、成歩堂も後ろから付いてくる。そのままリビングへと彼を通そうとしたところで、背後から声が掛けられた。

「ここで良いよ。のんびりくつろぐような気分でもないからね」
 そう言うと、成歩堂はダイニングの椅子を引いて腰を下ろす。御剣も仕方がなく、向かい側に座った。
「……何か、飲むか?」
「必要ない」
「……そうか」


 素っ気ない会話の後は、長い沈黙。
 それに耐えられなくなって口を開いたのは、御剣の方だった。
「今更、何を言っても許してはもらえないだろうが……」
「謝罪なんて要らないよ。それより事情を説明してくれない? 僕にはそれを聞く権利があるだろ」
 成歩堂は御剣の言葉を遮り、会話の主導権を奪う。御剣は従うより他になかった。

「……そうだな。私が失踪した理由を君にくどくど説明しても仕方がないだろうが……、私はあの頃、立て続けに起こった事件の影響で、検事とはどうあるべきか、分からなくなっていたのだ。検事というものに絶望していたと言ってもいい」
「絶望とは穏やかじゃないね」

「だが、あの時の私にはそれが一番相応しい表現だ。とにかく私は検事としての自分を一度捨てたかった。何もかも失わなくては、やり直すことも出来ないと思ったんだ」
「それであんな遺書めいた言葉を?」
 成歩堂の問いに、御剣は居たたまれない気分になった。
「それは……その……、単なる私のミスだ」


 正直に御剣が答えると、成歩堂はくすっと微笑んだ。ようやく見せてくれた彼らしい表情に、御剣の鼓動が弾む。そんな場合ではないと分かってはいたけれど。
「やっぱりね。そうだと思ってたよ。初心に戻ってイチからやり直すとか、生まれ変わったような気持ちで新たに始めるとか、そんなことを書きたかったんだろ? 書き置きですら不器用なんて、ホントにお前らしいよね」

「その通りだ」
 御剣は素直にうなずく。
 成歩堂が自分のことを正しく理解してくれていたのを嬉しく思うのと同時に、やはり彼にとっての自分はそんな認識なのかと哀しくもなった。
「だよね。だから僕はお前が自殺するなんて考えもしなかったし、ワーカホリックのお前が仕事を放りだして、のんびり旅行するはずもないと思っていたから、失踪したと聞いても、大して心配はしていなかったんだ」

「そうなのか……」
 御剣が安堵したのを見計らうように、成歩堂はきっぱりと言う。
「でも、ものすごく怒ってるよ。今もね」
 成歩堂は『怒ってる』と言うが、彼の表情にも口調にも激高した様子は見られない。けれど、風のない湖面のように、キンと音がしそうなほどの静かな緊張感が内包されていた。


(この男が本気で怒ると、こうなるのか……)
 御剣は成歩堂の佇まいに恐怖すら覚える。これならば、怒鳴り散らして、殴ってくれた方がよほどマシだ。決して怒らせてはいけない男がいるのだと思い知らされた。
「僕が怒っている理由が分かるかい?」
 出来の悪い子供に諭す教師のような口調で成歩堂が尋ねてくる。

 御剣は即答した。
「君に何も言わずに失踪したからだろう」
「それもある。でもそれが一番の理由じゃない」
「ム……」
「分からないみたいだね。答えを教えてあげてもいいけど。その前に一つ聞かせてくれる?」
 御剣はうなずいた。

「何なりと」
「そう。じゃあ、尋ねるけど。お前にとって僕はいったい何だ? お前は僕のことをどう思っているんだ?」
「それは……」
 恋人だ、と即答したいところだが、今となっては出来るはずもない。悩んだ結果、御剣は無難に見えて、最悪な単語を選んでしまう。
「……大切な友人だ」


「ふうん。まぁ、どうでもイイけど」
 突き放すような成歩堂の言葉に、御剣は自分の失敗を悟るが、もうどうしようもなかった。居たたまれずに押し黙ってしまう御剣に構わず、成歩堂は話を続ける。
「友人だろうが恋人だろうが、呼称なんてどうでもいい。問題は、お前が全てを捨てたくなるくらいに絶望した時に、どうして僕を頼ってくれなかったのか、だよ。そんなに僕は頼りなく見えたのかな」

 御剣はハッとした。
「違う……っ」
 気付いた時には、椅子を倒すような勢いで立ち上っていた。
「君は私を何度も助けてくれた。私は君を頼りないと思ったことなど一度もない」
 きっぱりと言い切った御剣に対し、成歩堂はくすっと微笑む。

「いいよ、そんなにムキにならなくてもさ。事実、お前はこうして僕と向かい合っている。それが出来るということは、僕が居なくても、一人でちゃんと立ち直れたんだろう? 良かったじゃないか。おめでとう」
 ともすれば嫌味に聞こえる言葉だが、成歩堂が心からそう思っていることが、御剣にも伝わってくる。
「成歩堂……、私は……」

「それより座ったら? 僕も最後に、少し話したいこともあるし」
「……最後?」
 御剣は目の前が真っ暗になるような気がした。
(もう……、終わりなのか? 私たちは取り返しのつかないところまで来てしまったというのか……?)


 力無く腰を下ろす御剣に、成歩堂はやはり静かな笑みを浮かべる。
「さっき、怒ってると言ったけどね。それはお前に対してじゃないよ。僕自身に怒っていたんだ。お前が悩んでいる時や、苦しんでいる時に、何もしてやれなかった自分自身にね。
 僕は困っている人を助けたくて弁護士になったはずなのに、一番救いたい人の力になれなかったことが、やりきれなかっただけなんだ」

「あ……」
 御剣は呼吸が止まるかと思った。
 成歩堂は御剣が思っていたような、いやそれ以上に素晴らしい人で、だからこそ自分が彼を苦しめてしまっている事実に、言葉が出なくなった。
 その沈黙をどう思ったのか、成歩堂は苦笑を浮かべる。

「プライドの高いお前のことだから、たとえ僕にだって、そんな簡単に弱みを見せたり、甘えたりできないって、分かっているんだけどさ。そういうところを好きになったはずなのに、勝手だよね」
 御剣はぶんぶんと首を振る。言葉はうまく出てくれなかったけれど、せめて気持ちだけは伝えたかった。簡単に結論を急いでほしくなかった。
 最後だなんて二度と言わないで欲しかった。


 だが、成歩堂の述懐は止まらない。
「僕はお前を助けているつもりで、きっと依存していたんだろうね。正義の味方のヒーロー気取りで、自分に酔っていただけかもしれない。僕が居ないとお前は何も出来ないんだって思いたかったんだ。そんなはず、ないのにさ」
「……成歩堂」

「僕にとっての恋人というのは、全身全霊で守り、全力で甘えさせてあげるべき人なんだ。でもお前にとっての恋人はそうじゃなかった。ただそれだけのことなのに、裏切られた気分になるなんて、おかしいよね。僕が勝手に思い込んでいただけなのに」
「…………」
 御剣の心も思考も追いつけない速度で、成歩堂は言葉を次々に進めてゆく。

「だからさ、お前が謝る必要も、罪悪感を覚える必要も無いんだよ。勝手に期待して、勝手に失望して、勝手に怒っている僕が悪いんだから。今日はそれだけを言いに来たんだ。お前のことだから、きっとすごく気に病んでいるだろうと思ったからね」
「あ……」
 成歩堂はやはり優しかった。


 それが『最後』だからなのか、それとも責任を感じているからなのか、あるいは無類のお人好しなのか、理由は分からないけれど。
 そして、そのことが御剣を追い詰めているということに、おそらく成歩堂だけが気付いていないのだ。

「もう止めてくれ!」
 御剣は我知らず、声を荒げていた。
「……御剣?」
 当然のごとく、成歩堂が戸惑っているのも伝わってくるが、一度吹き出してしまった感情は、もう止めることは出来ない。決壊したダムのように濁流となって流されるだけだ。

「君が……、君がそういう人だから……。私は、君の前から姿を消さなくてはならなかったんだ」
「どういう意味?」
 不安げに成歩堂が尋ねてくる。
 御剣はそれにきっぱりと答えた。

「私は君が怖かった。ただ、それだけだ」

              

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2014/12/14