『 邂逅……、そして 』

(8)



「……ん……」
 ふと成歩堂が目を覚ますと、腕の中にいたはずの御剣の姿が無い。
 もしかして、あれは全て自分の妄想か幻だったのでは、なんて不安を抱きながら、ゆるりと辺りを見回すと、すぐに御剣の白い裸体が目に入った。

 いつから、そこにそうしていたのだろう。
 御剣はベッドの端に腰を下ろして、どこか遠くを見つめていた。その滑らかな背中はとても美しかったが、同時にひどく拒絶されているようでもあった。
 成歩堂は声をかけることが出来ない。
 けれど目を逸らすことも出来なかった。

 そのまま、どれほどの時が経ったのか。おそらくは数分だったのだろうけれど、成歩堂には永遠にも思えるような時間だった。
 ふいに御剣がこちらを振り向く。それから少しバツの悪そうな顔をして、そっとささやいた。
「起きていたのか」
「そう言うお前もね」


 成歩堂の切り返しに、御剣は苦笑を浮かべる。
「いつものことだ。気にしないでくれ」
「それって、悪夢を見るって話?」
 御剣がこれ以上は踏み込むな、と目の前で扉を閉めたのは分かっていたが、成歩堂はあえてそのドアをノックする。愚直なまでに乱暴なやり方で。

 すると御剣は驚きに目を見開き、やがて軽やかな笑い声を立てた。
「ああ、そうだ。君はそういう人だったな。そうやって私を決して逃がさず、最後には必ず捕まえてしまうんだ」
「あきらめの悪さには定評があってね」
「まるでスッポンだな」
 御剣はくすくすと笑い、ふいに真剣なまなざしになった。

「ああ、私は未だに悪夢を見る。が、それでも以前よりは頻度が低くなっているのは確かだ。それは君のおかげでもある。そう言っただろう?」
「そうらしいね。でも今夜のお前は、まだ悪夢に苦しめられて飛び起きて、そうやって僕に背中を向けて一人で座ってる。そんなの許しがたいんだよ」


「……では、どうすれば?」
 御剣は戸惑ったように小首をかしげた。
「簡単だよ。僕の腕の中においで。そうしてお前を抱きしめて、一晩中だって髪を撫でて、愛の言葉をささやいてあげるよ。
 もうお前が二度と悪夢を見ないように。もしも悪夢を見ても、すぐにまた心静かに眠れるようにね」
 成歩堂は微笑みながら手招きをする。

 けれど、御剣は微動だにしない。
「だが、それでは君に迷惑が掛かる。君が眠れなくなってしまうだろう」
「構いやしないよ。どうせ僕は昼間も半分居眠りしているようなもんだしね。それに、いつでもどこでも眠れるのが僕の取り柄なんだ。この程度で睡眠不足になんかならないよ」

 どう贔屓目に見ても、何の自慢にもならない話だったが、御剣を説き伏せるだけの説得力はあったらしい。あるいは単に呆れただけか。
「……全く君という人は」
「僕がこういう人間だってこと、お前もそろそろ理解するべきだと思うね」
「まさに思い知らされたよ」
 御剣はやはり困ったように微笑む。


 けれど先刻までの拒絶する雰囲気は、そこにはなかった。美しい白い裸身を惜しげもなく晒して、御剣は成歩堂の隣に潜り込んだ。
 そこをすかさず成歩堂は抱きしめる。もう二度と御剣がこの腕の中から出てゆかないように、と。

「僕の心臓の音、聞こえる?」
 御剣は成歩堂の裸の胸に頬を寄せ、こくりとうなずく。
「目を閉じて、それだけを聞いていてごらん。きっと安心するよ」
「君は眠らないのか?」
「お前が眠ったらね」
「ムう……」
 御剣は不満そうな声を上げる。

「お前がそうやって意地を張っていると、僕もずっと眠れないんだけどなぁ」
「…………分かった」
 いかにも納得していない声音だったが、このままでは埒が明かないと思ったのか。御剣はようやく大人しく目を閉じる。

「子守歌を歌ってあげようか?」
「必要ない」
「昔々あるところにお爺さんとお婆さんが」
「それも必要ない」
「じゃあ、髪を撫でるのは?」
「必要な……、お願いする」
「あはは、素直だね。かしこまりました、お姫様」
 御剣のおねだりに従って、成歩堂は御剣の髪をそっと撫でる。


 こうして触れるのは、何度目だろうか。
 成歩堂は御剣の髪に触れるたびに、まるで御剣自身のようだと思う。
 しなやかで美しい真っ直ぐな髪は、どうにも掴みどころがなくて、成歩堂の指をするりするりと抜け出してしまう。
 だが、縛り付けるように、きつく握りしめたら、きっと痛いだろう。

 御剣が心地良いように。それでいて成歩堂も満足できるように。
 その力加減や距離感が難しい、と思うのだ。
 それでも今のところ、御剣は成歩堂の腕の中に大人しく収まってくれている。この幸福を喜ぶべきなのだろうけれど。

(……ずっと、こうしていられたら良いのに……)
 御剣が規則正しい寝息を立てるのを確認して、成歩堂もまた目を閉じるのだった……。



 そして翌朝。
 今度はちゃんと御剣が隣にいてくれたことに、成歩堂は心から安堵する。
 すやすやと無防備な姿で眠る御剣は、どこか子供っぽくあどけなく見えて、可愛らしかった。このままずっと御剣の寝顔を見ていたかったけれど。

 ふと時計を見れば、もう7時を回っている。
「今日は休みだって言ってたけど、どうしよう」
 二人でのんびりベッドの中で、悠々と怠惰な時間を過ごすのも悪くない。
 けれど、仕事の鬼の御剣がいくら休みだからといって、昼まで眠ったりするだろうか。成歩堂ではあるまいし。

 後になって、どうして起こしてくれなかった、と怒られるのもシャクなので、とりあえず声を掛けてみることにした。
「おはよう、御剣。もう7時だよ。そろそろ起きた方がいいんじゃないかな?」
 すると御剣は、成歩堂の胸にぎゅっと抱きついて、いやいやと首を振る。
「……あと10分」


「う……っ」
 そんな可愛い仕草をされたら、こちらも嫌だとは言えない。思いっきり抱きしめて、キスしてやりたい気持ちを堪えながら、成歩堂はしばらく御剣の寝顔を堪能した。
「あの……、御剣。10分過ぎたけど……」
「……もうちょっと……」
 御剣は甘えるような声でつぶやく。

 もしかしたら御剣は朝が弱いのだろうか。これはこれで楽しい光景ではあるが、こうしていると、このままずるずると何時間でも許してしまいそうだった。
「えっと、その……、まぁお前が良いなら、僕はイイんだけどさ。本当に大丈夫なの? 今日は何の予定も無いんだね?」

 成歩堂がしつこく尋ねると、御剣はいきなりがばっと顔を上げた。
「駄目だ。今日は10時から人と会う約束がある」
「休みなのに?」
「先方の都合でな。仕方があるまい」
 御剣はすっかり仕事モードになったらしく、先刻までの可愛らしい天使のようだった面影は欠片も残っていなかった。


 きびきびとした動きで、そこに落ちていたバスローブを身に着けると、御剣は洗面所へと向かってしまう。
「それ……、僕の……」
 そんな訴えが届くはずもなく、仕方がないので、成歩堂は全裸のまま、ぺたぺたと御剣の後を追った。

「あのさ、御剣。僕の服どうしたっけ?」
 顔を洗っている御剣に声を掛けると、御剣は無言で洗濯機を指差す。
「下着はその中だ。洗って乾燥してあるから、着て帰りたまえ」
「あ……、ありがと……」
 御剣の心遣いに素直に感謝する。ちなみにスーツの方はハンガーに掛けて、リビングの壁に吊るしてあった。至れり尽くせりだ。

 そんなこんなで、成歩堂が慣れない家であたふたと歯を磨いたり、ヒゲを剃ったり、トイレに行ったりしている間に、御剣はすっかりいつもの『御剣検事』の装いになっていた。
 ワインレッドのスーツに白のヒラヒラ。一分の隙もないその佇まいからは、昨夜の痴態を想像することも難しい。


 可愛い恋人の御剣がどこかへ消えてしまったようで、成歩堂はにわかに寂しさを感じる。仕方がないことだとは分かっているけれど。
「忙しなくて済まないが、そろそろ出るぞ。支度は出来ているか?」
「あ、うん。大丈夫だよ」
 成歩堂が答えると、御剣はくすりと微笑む。
「ネクタイが曲がっているぞ」
 そう言って、しなやかな指先できっちりと直されてしまった。

「まるで新婚さんみたいだね」
「君はまたすぐにそういうことを……」
 照れくさそうに頬を染めて、そっぽを向く御剣は、やはり可愛い御剣のままだった。
 成歩堂は堪らなくなって、御剣の身体をぎゅっと抱きしめる。

「こら、スーツがしわになる」
「ごめん。分かってるけど、ちょっとだけ。だって、このままサヨナラなんて素っ気ないじゃないか。せめて最後にキスして良いかな?」
「一度だけだぞ」
 意外にもすんなりとお許しが出たので、成歩堂は遠慮なくキスさせてもらうことにした。それでも一応は気を遣って、軽くついばむ程度だ。


 とはいえ何度も何度も角度を変えて唇を重ねていると、とうとう焦れたらしく、御剣の方から成歩堂の首に抱きつくようにして、熱い舌を差し込んでくる。
「ん……っふ……っぅ」
 健全な朝には相応しくない、御剣の甘ったるい喘ぎ声と、粘着質の音が、御剣家のリビングにしばらくの間、響き渡った。

 やがて、長すぎる『一度』のキスを終えて、二人はゆっくりと唇を離す。御剣の舌先から銀の糸を引いているのが、ひどく隠微な眺めだった。
「では、今度こそ行くぞ」
「うん、そうだね」
 御剣は乱れた服を直して、決然と背を向ける。もう抱きしめても、応えてはくれないだろう。さすがの成歩堂もあきらめざるを得なかった。

「次はいつ会える?」
「仕事が立て込んでいるのでな。いずれ連絡する」
「分かった。待ってるよ」
 そんな会話を交わした後、二人は御剣のマンションの前で、お互いに軽く手を振って別れた。


「では、な」
「またね」
 最後の会話はその程度だった。
 成歩堂は次の機会がすぐにやって来ると疑っていなかったし、御剣もきっとそのつもりだったのだろう。多分、おそらく。

 けれど、その約束はどれほど待っても果たされることはなく。
 数か月後、成歩堂の元に届いたのは、御剣が遺書めいた書き置きを残して、失踪したという知らせなのだった……。



              

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2014/12/07