【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『 運命の夜 』

(1)


 ……その夜、愁厳は眠り続けた。
 彼がこれほどまでに長時間眠ることは、滅多にない。
 おそらくは目覚めたくなかったのだろう。目を覚ませば、何らかの結果が出ているはずだったから。それに、あまり早い時間に目を覚ましてしまうと、刀子と双七の濡れ場を見聞きすることにもなりかねない。

 そして愁厳は、双七が刀子を拒むことは無いと思っていた。もしも拒まれたとしたら、とっくに刀子から何らかのリアクションがあっただろうし、双七ならば刀子の想いを誠実に受け止めてくれるはずだった。
 だから結局のところ、愁厳は眠り続けるしかなかった。目を閉じ、耳をふさぎ、意識を遮断して、ひたすら眠って眠って眠り続けて。

 目を覚ました時には、すでに夕方に近い時間だった。
 刀子に声を掛けてみようと思ったが、どうやら疲れているらしく、すでに眠っているようだったので、そのままにしておいた。それだけ消耗したということは、つまりはそういうことなのだろう。この様子では当分目覚めそうにない。

 愁厳は白ランを肩に羽織ると、家の外に出た。もう晩秋ともなれば、木々を揺らす風もひんやりと冷たい。しかしだからこそ、目の前に広がる夕暮れは息を呑むほどに美しかった。
 傷付いていない訳ではない。辛くないはずもない。
 それでも自分の目と心は、この夕日を美しいと感じることが出来る。それは何となく誇らしくて嬉しかった。


「これで……、良かったんだ」
 愁厳はそっとつぶやく。
 誰よりも大切で、誰よりも愛する刀子を、誰よりも相応しい相手に託すことが出来た。
 これで刀子も幸せになれる。子供の頃に自分が奪ってしまった幸福よりも、ずっとずっとたくさんの幸せを手にすることが出来るだろう。

 悔いはない、と思った。
 その日が来ることは、ずっと前から覚悟の上だ。
 それがほんの少し早まるかもしれないというだけのこと。おそらく二十歳までは生きられないかもしれないというだけのことだ。


 愁厳は思い出していた。
 かつて、こんな風に夕日を見ながら、双七に恋をしている、と確信した日のことを。
 そしてまさにその日に愁厳は双七に別れを告げたのだったが、紆余曲折を経て、また双七は愁厳の元に戻って来てくれた。理由も聞かずに。

 それから二週間ほどしか経っていないけれど、ずいぶんたくさんの時間を双七と過ごした。離れていた時間を埋めるかのように、双七は他の誰よりも自分の傍に居てくれた。
 嬉しかった。幸せだった。彼と過ごした時間を思い返すと、それだけで心が温かくなるようだった。

 双七がくれた言葉も、見つめるまなざしも、楽しげに響く声も、明るい笑顔も、何もかも覚えている。この記憶だけは刀子にすら渡すことの出来ない大切な宝物だ。
「せめて……、これくらいは許してくれ」
 心の中に抱いている双七の思い出は、最期に辿り着く場所まで持って行きたい。そこがどこかは分からなかったけれど。


 愁厳は双七のことだけを考えながら、ずっと沈みゆく夕日を見つめ続けた。
 黄昏色に世界が染まるこんな時間は、まるで夢を見ているように不確かで、現実感が失われてしまう。逢魔が時とはよく言ったものだ。
 だから、夕闇を掻き分けるようにして、『彼』が現れた時も、愁厳はそれが現実の事とは思えなかった。自分の想いが幻となって形作られたようだった。

 しかし、彼は真っ直ぐにこちらを向いて、声を掛けてくる。
「こんにちは、会長」
「こんにちは、双七君」
 二人の置かれている状況を考えると、それはあまりにも平穏で間の抜けた会話だったかもしれない。

 だが、いつもと同じ双七の姿に、愁厳が安堵していたのも束の間。ふいに双七の表情が深刻なものに変わった。
「刀子さんから、話は全部聞きました」
「ああ、知っている」
 愁厳はうなずいた。

「あなたがずっと俺に頑なに隠していたことを、まさか他の人から聞かされるとは思わなかったですよ。あなたは俺にいつか必ず話すと約束してくれたのに」
 どうやら双七は怒っているようだった。無理もないと思う。
「すまない。ずっと君には知らないでいて欲しかった。最期の時まで、変わらずにいて欲しかったんだ。単なる俺のワガママだ。それを叶えてくれて、今はとても感謝している」
 愁厳は微笑みを浮かべた。


 それを目にした双七は、ぐっと右手を握りしめる。何かを堪えているかのようだった。もしかしたら、そのこぶしで愁厳を殴りたかったのかもしれない。もちろん愁厳は殴られても構わなかったけれど。
 当然ながら、双七は愁厳を殴ることなどせずに、ぼそりとつぶやいた。
「……俺には分からない」
 その言葉に愁厳が首をかしげていると、いきなり双七が声を荒げて怒鳴る。

「どうして、あなたがそんなに簡単にあきらめてしまえるのか、俺には分からない。自分が消えれば、全ては丸く収まるなんて思っているなら、あなたは大馬鹿だ。それで刀子さんが喜ぶとでも? それで俺が大人しく納得するとでも思っているんですか!?」
「双七君……」

「俺はね、あなたほどあきらめが良くないし、潔くもないんです。俺の目の前から、一乃谷愁厳が消えるなんて許せない。たとえいつか消える日が来るのだとしても、その瞬間まで必死に抵抗すれば良い。みっともなくても情けなくても、あがいてもがいてジタバタすれば良いでしょう?」
 双七の言うことは分かる。そこまで言ってもらえるのは嬉しいと思うけれど、愁厳は静かに答えた。

「それは……、俺には無理だ」
「でしょうね」
 双七は切り捨てるように言った。
 そして、哀しげなまなざしで訊ねてくる。
「あなたには望みはないんですか? 将来の夢は? やりたいことは? やり残していることは? 何もないって言うんですか?」

「俺の望みは……、君と刀子が幸せになることだ」
 それは本心だった。強がりではない。負け惜しみでもない。心の底から愁厳はそう思っていた。
 すると、双七は深い溜め息を落とす。
「ああ……、そうか。あなたにとっては、その程度なんだ。学校も友人も、それから俺も、あなた自身ですらも、あなたをこの世界に繋ぎ留めてはおけないんだ。あなたにとって大切なのは、刀子さんだけで……」

「それは違う」
「違わない」
 愁厳のささやかな反論は、双七の一言で片付けられた。
「違うというなら証拠を見せてください。泣いてください。怒ってください。死にたくない、消えるのは嫌だと言ってください。俺はそんなあなたを見ても、絶対に軽蔑なんてしないから」
「それが出来るくらいなら、とっくにやっているよ」
 そんな風に素直に感情を表に出すことが出来るのなら、苦労は無いのだから。


「どうして……、どうしてあなたはそんなに、強いんだ……」
 苦しそうにつぶやいた双七の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
 愁厳を止めることが出来ない自分への悔し涙か。それとも運命をただ受け容れてしまった愁厳への哀切の涙か。
 それからしばらくの間、双七は何かを堪えるように固く目を閉じて押し黙っていた。

 やがて静かに目を開けると、淡々と告げる。
「俺は……、刀子さんを抱きました」
「ああ」
「でもそれは、あなたが消えることを受け容れたからじゃない。俺は会長にも刀子さんにも消えて欲しくない。どちらも失いたくない。だから刀子さんを俺の元に繋ぎ止めておくために、彼女を抱いた」

 双七の言葉に、愁厳はうなずいた。自分のことはともかく、刀子とってはそれが最良の選択だろう。双七の決断に拍手を送りたいほどだ。
 しかし、それに続く双七の言葉が、愁厳を戸惑わせる。
「……だから、俺はあなたにも同じことをする」
「どういう……意味だ?」
 困惑して尋ねた愁厳に、双七はきっぱりと答えた。

「俺は……、あなたを抱きます」


            
NEXT>> 

戻る     HOME