【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『鎮魂歌』

(2)

 毎日キャンバスに向かい、ひたすら絵を描き続けた日々。
 それは自分の心を無理やりこじ開け、奥底まで手を突っ込み、ドロドロと沈殿している正視に耐えぬような、己の醜さや弱さや迷いを引きずり出す作業に他ならず、仙石にとって、ひどく苦しみを伴うものでもあった。

 かつて、行が言っていた言葉が思い起こされる。
 『忘れたり、紛らわしたりするんじゃ絵は描けない…』
 まさにその通りだと思った。ようやくその言葉が理解できた。そしてそう言った時の行の苦しみもまた。
 自分が目を逸らしていた場所を覗きこむのは、容易なことではない。

 しかしそれでも、自分の内面に真っ直ぐ向かうことすら出来ずに、キャンバスに当り散らしていた時よりは、ずっとまともだったろう。
 思うような絵が仕上がってくれることは、ほとんどなかったが、一枚、また一枚と絵が出来上がって行くうちに、仙石の心も少しずつではあるが、昇華されていった。


 そんな仙石の快復ぶりを見計らっていたかのように、兄から自分の店の壁画を描いてくれ、との依頼があった。
 最初は仙石も尻込みをして断ったのだが、兄はあきらめることなく説得を続けたので、とうとう折れざるを得なかった。自分が今も生きていられるのは兄のおかげである。その恩返しのつもりで、やってみることにした。

 とはいえ、仙石は壁画など描いたことがない。
 そもそも、それほど大きな絵を描いた経験も無いのだ。艦上ではほとんどスケッチに等しいような水彩画であったし、家で描くとしてもせいぜいが15号くらいまでだった。


 そこで、仙石は壁画の描き方を知る所から始めなくてはならなかった。
 画材屋で尋ねたり、図書館で本を調べたり、娘の学校の美術教師に聞いてみたりもした。そしてどうやら壁画にはアクリル絵具を使用するのだと知ったが、そこからがまた問題だった。
 仙石は元来が器用な人間ではない。慣れない画材では思うような色を作ることすら難しかった。コツをつかむためには、ひたすら描くしかない。頭ではなく身体で覚える、それが仙石の流儀だ。


 目の覚めるような鮮やかな青い海の絵を描きながら、仙石はふと行のことを思い出した。きっと行ならば、たとえ慣れない画材でも、あっさりと見事な絵を仕上げてしまうのだろう。
 壁画も仙石よりもずっと素晴らしい物を生み出すに違いない。

「…あいつには似合わねぇか」
 仙石はくすりと笑う。
 行が大きな壁と格闘しながら、絵筆を握っている姿は、あまり想像が付かなかった。小ぎれいなアトリエで上品な絵を描いている方が、あの端正な横顔には相応しい。

 そして、そこまで想像してから、ようやく、もう行は絵を描くことも出来ないのだ、と思い出した。行は絵筆を取ることも出来ない。あれほどの才能がみすみす喪われてしまったのだ。


「どうして…、俺なんだ…ッ!」
 仙石は遣りきれない想いで、筆を持ったままの右手を思い切りキャンバスに叩きつけた。筆に付いていた白い絵具が、青一面のキャンバスの中心を分断する。まるで仙石の心に深く刻まれた傷のように。

 生き残ったのが仙石ではなく、行だったなら、どれほど良かったろう。まだ行は仙石の半分も生きていない。そしておそらく楽しいことも、ほとんど知ることはなく。
 これからだったのだ。本当にこれから…。

 もしも自分を身代わりにして、行が生き返るというのなら、仙石は迷うことなく、その身を差し出すだろう。この程度の命であがなえるのなら、いくらでもそうしただろう。

 ──しかし、もう如月行は戻ってこないのだ……。

 仙石は床に転がった絵筆を拾い上げた。自分に出来ることはこれしかない。彼らのために出来ることは、これだけだ。
 彼らの眠る海を描くことだけ…。


 それからの仙石は、ひたすら絵に没頭した。
 ようやくアクリル絵具に慣れてくる頃には、今度は壁画の下地作りに取り掛かった。改装途中の店舗は慌しく工事業者が出入りしていたが、その脇で黙々と壁面を調べる日々が続いた。
 雨水が染み出していないか、剥がれ落ちそうな箇所は無いか、ひび割れは無いか、カビは生えていないか等を、壁一面を詳細に調べるだけで、数日間を要した。痛んだ所を修復し、下地用コートを施すのに、また数日を掛けた。

 その間は、店舗と家を行ったり来たりしていたのだが、それもまどろっこしくなり、兄に頼んで、倉庫に寝泊りさせてもらうことにした。改装中の店舗にはもちろん暖房などもなく、冬の厳しい寒さには身体も堪えたが、家から通う時間すら惜しかった。

 とはいえ、いざ描こうと壁面を前にすると、どうして良いか分からなくなった。これほど大きい画面では全体が把握出来ない上に、いったいどこから手を付ければ良いのか。
 壁画の描き方には、壁を小さなマス目に区切って、それを一つ一つ埋めていく方法もあるようだったが、仙石はそうしたくはなかった。たとえ全体のバランスが悪くなっても、予定通りの物が出来なくとも、この壁全体と戦いたかった。

 これが仙石にとっては、広い海原でもあるのだから。

 迷いながらも壁の真ん中に、青い色を置いていくと、ようやく気持ちも落ち着いた。余計なことは考えず、ただあの海を思い浮かべる。
 行が消えていったあの海を……。

 あの日の海は、ひどく蒼くて美しかった。まるで如月行を手に入れて悦んでいるかのように…。
 同じ海に自分も還ることが出来るなら、それも良いかとすら思った。がむしゃらに泳ぎながら、そのまま死んでも構わなかった。

 彼らと≪いそかぜ≫と共に、眠りたかった。
 …この海で。


 あの美しさを再現できるとは思わない。行ほどの才能があれば別だろうが、自分には不可能だと分かっていた。
 それでもあの日の、あの海を描くことの出来るのが、自分だけならば、せめて死力を尽くすしかないのだ。

 仙石の悲壮なまでの決意とは裏腹に、描き出される海は、ただ静かで穏やかだった。誰もがそこに還ることを願い、そこに眠ることを夢見るような、ひたむきなまでに蒼い海だった…。


 そして今、仙石は描きあがった絵を、妻と娘と共に見つめている。
「…まるで、愛の賛歌のようね」
 それまでじっと絵を見つめていた頼子であったが、ふと、つぶやいた。その瞳にはまだ涙の名残がある。それでも彼女はやわらかく微笑んだ。慈母の如くに。

「愛の賛歌?」
「ええ。あなたも知っているでしょう?有名な曲。シャンソン歌手のエディット・ピアフは、飛行機事故で恋人を亡くしてしまい、その人への想いを込めて歌ったんですって。この絵を見ていて思い出したのよ」
「そうか…」
 確かにこの絵には亡き人への想いが宿っているかもしれない。

「…いや、これは鎮魂歌だ」
 仙石はつぶやいた。
 これは鎮魂歌。亡き人に捧げるレクイエムだ。あの海で眠る魂が安からんことを祈って…。

 ……ほんの少し、待っていてくれ。
 俺もそのうちに、そっちに行くから。


 逝ってしまった人々を想いながら、仙石はそっと瞳を閉じた。
 その耳に、彼らと≪いそかぜ≫が眠る海の、潮騒が聞こえてくるようだった…。


               おわり

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ここまで読んで下さってありがとうございましたm(_ _)m

私にしては珍しいシリアスです。
本当はもっと痛々しい感じにしたかったのですが、
筆力が足りず、出来ませんでした(苦笑)。

しかも過去話でありながら、回想が多くて、
読んでいてとても分かりづらいかと思います。
すみません…。
ついでに、壁画の描写もテキトーです。
重ね重ねすみません(苦笑)。

ところで、タイトルで何となく想像付くでしょうか。
「愛の賛歌」と関連する作品となっております。
これと一緒に合わせて読んで頂けると、
より、それぞれの雰囲気が楽しめるかと。
あの作品を書いた時から、仙石さんが実際に
壁画と格闘している場面を描こうと決めていたのです。

あ、これも一応『仙行』ですから(笑)。
結局後編になっても、それっぽい描写は出てきませんが、
ちゃんと仙行前提ではあります。
まだ仙石さんが自覚していないから、仕方がないですね。

2005.05.30

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