『特別な存在』 |
(1)行の運転は意外なほどに慎重で、ほとんど制限速度を越える事もない。 仙石は、大して車も走っちゃいねえんだから、もっと飛ばせ、と思わなくもなかったが、下手にスピードを出されるよりは、ずっと良い。せっかく出会ったのに、事故であの世逝き…なんて冗談にもならない。 館山の市街地を抜けると、辺りは一辺して、のどかな景色になる。ほとんど車の通らない山道をガタガタと登り、やがてうっそうと繁る木々の向こう側に一軒の家が見えた。 家の前で仙石をおろすと、行はそのまま車庫に車を滑らせる。車庫入れも見事な手際だったが、仙石はそれには目を向けず、行の自宅らしき建物をぼんやりと見上げた。 二階建ての、それほど大きくはないが、れっきとした一軒家。 特に変わったデザインでもなく、町に下りれば、こんな家はいくらでも建っているだろう。今をときめく新進気鋭の天才画家が隠れ住んでいるとは誰も思うまい。 あるいはそれが狙いなのかもしれないが、仙石はやはりほんの少し落胆した。 たとえ『如月行』であっても、家に帰れば、当たり前の普通の人間なのだ、と思い知らされた気がした。思えば乗っている車も、ごく普通の国産車だった。 仙石は強く頭を振る。馬鹿な考えをここから閉め出したかった。 行が普通に暮らしているというのなら、それが一番喜ばしいことではないか。色々なことがあっても、やっとこうして平穏を手に入れたと言うのなら。それでがっかりするなんて、自分が信じられない。 …それとも、行が不幸ならば良かったのだろうか、俺は。 そんなことまで考えてしまい、仙石は人知れず自己嫌悪に陥った。意識を変えようと、行の姿を探すと、すでに車を入れ終えて、ドアの前に立っている。 「何やってんだ。来ないのか?」 急かされた仙石は、慌てて行の傍に駆け寄るが、ドアの横に掲げられている表札を目にして、首をかしげた。 「…田上?」 もしかしたら行の自宅ではないのだろうか、と思うのと同時に、行が答える。 「オレが今使っている名前だ」 そして、説明は後だ、という顔で中に入るように促すから、仙石はそっと足を踏み入れた。 玄関の左手にはすぐに階段がある。右手にはドアが並んでいるが、トイレに風呂といった所だろう。短い廊下の突き当たりは、リビングだ。窓が大きく取ってあるので、昼間は明るい陽射しが降りそそぐに違いない。今はすでに日が落ちて、カーテンに遮られているだけだったが。 「何も出してやれる物なんてないけど」 行はそう言いながら、リビングとはカウンターで仕切られているキッチンに向かった。仙石は、その背中に気にするな、と声を掛けて、部屋の中を見回す。 「こっちは…、アトリエか?」 興味本位で思わずドアを開けてしまったら、残念ながら、そこは寝室だった。ほとんど家具のない殺風景な部屋の片隅に、ちょこんとベッドだけがある。仙石は何故だか恥ずかしくなり、慌てて扉を閉めた。 「どうかしたか?」 戻ってきた行は、右手にコーヒーカップを持っている。 「い、いや何でもねえ」 かすかに頬を染めながら、仙石はリビングのソファに腰を下ろした。 そこへ行が白いカップを置く。見るからに客用といった趣の、繊細な作りの白いカップアンドソーサーには、小さな蔦の葉の模様が描かれていた。中にはもちろん琥珀色の液体。 「ミルクとか、砂糖とか…、要るんだよな?」 「あんまり気ィ遣うなよ。何も要らねえから」 「そうか?」 ちょっと困ったように首をかしげる行に、大丈夫だと言うつもりで、仙石はカップに口を付けた。こんな風に気を遣うのは、やはり行らしくはない。そもそもこんなカップが出てくること自体、不思議だった。 「お前もこんなの持ってるんだな」 「浦沢が、うるせえんだよ…」 「ん?」 聞き慣れない名前が行の口から出てきたことに、仙石が戸惑っているうちに、行は自分の分のコーヒーを取りに行き、また戻ってきた。 「あんたも会ったろ。銀座の画廊のオーナー。あいつが客にはコーヒーくらい出すもんだってさ。わざわざカップまで用意してな」 「ははは、まるで保護者だな」 仙石は例の画廊のオーナーには良い印象はほとんどないが、行とはそれなりに上手く行っているようだ。それだけ行も大人になったということなのか。 何となく寂しさを覚えるが、それを振り切るように、仙石は明るい声音で言った。 「行、アトリエ見せてくれよ」 |