【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『 遠い日の花火 』

(1)



 いつものように行がキャンバスに向かっていると、どこからか風に乗って物悲しい音楽が聞こえてきた。『遠き山に日は落ちて』である。
「……もうそんな時間か」
 行は顔を上げて、アトリエの窓に目を向けた。

 どこで流しているのか知らないが、ちょうど夕方の五時になると、この音楽が聞こえてくるのだ。
 スピーカーからの大音量で、ひどい雑音が混じっているが、名曲の調べの美しさは損なわれていない。
 むしろ掠れた響きが、ますます郷愁を誘うようだった。これを聞いたら、誰もが早く家に帰りたいと思うだろう。


 ……自分には『家』と呼べるものがあるのだろうか。
 行はふとそんなことを考えた。
 かつて過ごした白浜の家は、すでに人手に渡っているし、あそこを家だと思ったことはない。
 けれど今住んでいるここも、ただ雨風をしのげる場所が必要だっただけで、家だという感じはしなかった。
 それにきっと、家には家族が必要なのだろうから。

「家族か……」
 その言葉で、思い出されるのはたった一人。
 惹き込まれてしまいそうな明るい笑顔が、目の前に甦るようだった。彼を家族と呼んで良いのか、行には分からなかったけれど。
 あの人の他に、それに相応しい相手は浮かばなかった。

「今日は仙石さん、来なかったな」
 思わずそんなことをつぶやいてしまい、自分で呆れる。
 いくら仙石とはいえ、毎日来られるはずもない。仙石には仙石の仕事があり、自分よりも優先しているものだって、他にいくらでもあるだろう。
 それは分かっているつもりだったけれど。
 まだ結ばれて間もない恋人を、ずっと放っておくなんて、いったいどういうつもりだ、と怒ってやりたい気持ちも、やはり存在するのだった。

 最後に仙石がここを訪れたのは三日前なのだから、放っておかれているどころか、ずいぶん可愛がられているのかも知れないが、いつもただ仙石がやってくるのを待っているだけの行にとっては、途方もない長さに思えた。
 それでも今日は絵に集中できた方だ。もうすぐ完成する絵を見つめ、行はまた筆を手に取った。仙石が来ないのならば、絵を描くくらいしかやることはない。


 すると、そこへドアベルが荒っぽく鳴り響いた。こんな鳴らし方をするのはただ一人である。そもそもこの家に客などほとんどやって来ないが。
 行は慌てて筆を置き、階段を駆け下りる。二階のアトリエは眺めが良いけれど、こんな時はまどろっこしい。相手を確認するまでもなくドアを開けると、そこには当然ながら、仙石が立っていた。

「よお」
「こんな時間にいったい何の用だ」
 仙石が来てくれて、嬉しくないはずはないのに、口は勝手に言葉を紡いでしまう。そんな自分が嫌になったが、仙石は平気な顔で笑っていた。
「土産だよ。今からちょっと出られるか?」
「今から……?」

 不審そうにする行に、仙石は右手に提げていた大きな袋を差し出した。中を覗いてみると、何やら極彩色の物が山ほど入っている。
「花火か」
「おう。夏と言ったら花火だからな」
「そんなもんかな」
 行には良く分からなかった。


 首をかしげながら、袋の中に視線を戻すと、そこに入ったパッケージには『よいこの花火セット』と書かれていた。ざっと数えても五十本以上はありそうだ。こういうのは大勢でやるものではないのだろうか。
「……これを二人で?」
「少ないよりは多い方が良いじゃねえか」
「それでも限度ってものがあるだろ」
「まぁそう言うなって」
 行に何を言われても、仙石はどこ吹く風でニコニコしている。それどころか……。

「ちゃんとドラゴン花火も買ってきたんだぞ。パラシュートもあるし、ネズミ花火も欠かせねえよな。それから、こっちは……」
 延々と解説が始まってしまいそうなので、行は慌てて遮った。
「分かった。それじゃ早く行こう」
「待て待て。準備がいるんだ。バケツあったよな?」
「知らない。あんたが片付けたんだろ」
「それなら物置だな」
 そう言うと、仙石はそちらに向かった。

 行がぼんやり後ろ姿を見つめていると、すぐに右手に青いポリバケツを持って戻ってくる。そのバケツは、部屋を掃除するのにバケツが無いと不便だと言って、仙石が買い求めてきたものだった。
 元々、行はそれほど部屋を散らかす方ではないが、だからと言って、マメに掃除をしている訳でもない。ホコリが溜まっていても、それで死ぬことはないのだから気にしない、というアバウトさである。

 それを憂いた仙石は、いつしかこの家に来るたびに掃除をするようになっていた。いや、掃除だけではない。行のあまりに貧しい食生活を気にして、いつも食材を片手にやって来ては、大雑把な手料理をふるまってくれる。
 その後は泊まっていったり、いろいろあるのだが、行は仙石のおせっかいとも思える世話焼きが嫌いではなかった。それだけ自分を心配してくれているのだろう、と素直に受け止めていた。
 それに何よりも、仙石とともに過ごす時間が心地良くなっていたのに違いなかった……。


「よし、それじゃ車に乗れ。早くしないと暗くなっちまうぞ」
「花火なら暗くてもいいじゃないか」
「ちょうど良い場所を探したりするのには、ある程度明るい方が良いんだよ」
「まだ完全に日が暮れてしまうまでには、二時間くらいあるぞ」
 答えながら、行はちょっと首をかしげた。
「車?」
「ああ、そうだよ」

「花火くらい、その辺でやれば良いだろ」
「バカ野郎。こんなに木が生い茂っているような場所で花火なんて出来るかよ。とにかく支度しろ」
「分かったよ」
 行は渋々うなずいた。
 いくら何でも、もう花火ではしゃぐような子供ではない。それでも仙石がやりたいと言うなら、付き合ってやろうという程度の気持ちだった。

 たかが花火をするのに車に乗っていくのも面倒だとも思ったけれど、確かに行の家の周りは木で囲まれていて、花火に適した環境とは言えない。木や草に燃え移って、火事にでもなったら大変だ。花火をやっていて家を燃やしたなんて、笑い話にもならないだろう。
「ほれ、早くしろ。暗くなるぞー!」
 窓の外を眺めて心配そうにしている仙石の声に急かされるようにして、行は慌てて支度を始める。


 とはいえ、支度といっても着替えをする程度だから、行の準備は五分ほどで終わった。財布と家のカギをポケットに突っ込んで自宅を後にする。 すでに仙石は待ちかねたように車の中で待っていた。
「遅かったな。ちゃんとシートベルトしろよ」
「はいはい」
 助手席に乗り込んだ行がシートベルトをするのを律儀に確認してから、仙石は車を発進させた。さぞや待ちくたびれて苛々しているかと思えば、意外とそうでもないのか、ハンドルさばきも軽快に鼻歌などを歌っているから、ご機嫌なようだった。

「で、どこ行くんだ?」
 行が尋ねても、仙石はにやにやと笑うばかりだ。何だか気色悪い。
「着いてからのお楽しみだよ。まぁそんなに遠くじゃねえから心配すんな」
「別に心配なんてしてない」
「それなら大人しく座ってろ」
 そう言われてしまうと、もう何も言い返せなくなる。簡単に言い負かされてしまうのが悔しくて、行はほんの少しふてくされた。

 わざと仙石から視線を逸らして、流れていく窓の景色をぼんやりと眺める。地元である行にとっては、見慣れた風景が、あっという間に過ぎ去って行った。夕暮れから闇へと沈みゆきつつある町並みは、いつもと変わらぬ穏やかさだ。
 買い物かごを下げて、急ぎ足で通りすぎる人は、家族が家で待ってでもいるのだろうか。小ぢんまりとした家の窓には、やわらかなオレンジ色の光が灯っている。そろそろ夕食の支度でも始まるのだろう。


 あの家の一軒一軒にも人が住んでいて、毎日を笑ったり悩んだりして暮らしているのかと思うと、不思議な気分になった。
 それでも、そんなことに思いをはせる事が出来るようになったのは、家を人が住む場所だと認識できるようになったからだ。
 そんなのは当たり前だと、他人は言うかも知れないけれど、『家』に、ぬくもりや優しさや穏やかさをイメージすることが出来るのは、それを知っている人間でなくてはならないのだから。

 家というものの価値もまた、仙石が教えてくれたものだった。
(……そうだったな、仙石さん)
 ふいに子供っぽい意地を張っているのが馬鹿馬鹿しくなり、行は運転席側に顔を向けた。すると、どんな偶然か、目の前の信号が赤に変わる。車を停めた仙石がこちらに顔を向けるのと全く同じタイミングで、二人の視線が出会った。
「退屈か? もうすぐだから我慢しろよ」
 仙石はそう言うと、屈託なく笑う。

 行はただ無言でうなずきを返した。やっぱり背を向けているよりも、仙石を見つめている方がずっと良かった。
 視線を前に戻しながら、行は心の中がほのかに温まるのを感じた。仙石が微笑みかけてくれたという、それだけで幸せな気持ちになる自分に何だか笑ってしまいそうだった。
 そこへ仙石の調子外れの鼻歌が聞こえてきて、ますます可笑しくなるのだった……。



「そら、着いたぞ」
「ここは……」
 車が辿り着いたのは、忘れるはずもない思い出の場所だった。
 二人が再会したあの海岸。水平線に向かって、ちぎれるほどに手を振ったあの場所に違いなかった。そもそもあの日から、まだ二ヶ月ほどしか経っていない。

 行が住んでいる館山からは、ほんのすぐそばだったが、あれ以来、行がここを訪れることはなかった。何となくここで自分がやるべきことは終わったような気がしていたのだ。
 それに、仙石と再会してからは、お互いの気持ちを確認し合ったり、無事に結ばれてからも色々あったりして、行にとっては青天のへきれきにも近い出来事が、次から次へと起こっていったので、ここに来る暇も余裕もなかったのだ、とも言えるけれど。

「懐かしいだろ。まぁ、それほど、昔の話じゃねえけどな」
 車から降りて、海風を顔に受けながら、仙石は明るく笑った。
「お前と花火をやるんだったら、ここがちょうど良いと思ってな。人も来ねえし、ある程度の広さはあるし」
 仙石の言うとおり、目の前の浜辺には人影は全くなかった。自分が子供の頃はともかく、今は遊泳禁止なのかもしれない。周囲にはゴツゴツとした岩場も多い。
 それに、他にもっと良い浜辺はいくらでもある。ここで無理に泳ぐ必要なんてないのだ。


 太陽はすでに沈んでいて、辺りは温かなオレンジ色の光から、紫がかった薄闇色に変わっていく所だった。
 ベールを剥ぐようにゆっくりと周囲が暗くなるにつれ、海の色もまた深みを増していく。もう程なくすれば、どこまでが空でどこからが海だか分からなくなってしまうだろう。
 砂浜を二人並んで歩いていると、さくさくと足元で砂が沈む音と、波が満ちてはまた返す海鳴りの音が、全てだった。珍しく仙石も口を開こうとしないから、二人はしばらくの間、その音だけを聞き続けた。

 あれから一年以上が過ぎても、未だに海を見るだけで、思い出されるものが仙石にはあるのだろうし、行にもまた心の中で疼くものがある。これはきっと永遠に消えることはないのだろう、と思った。
 仙石は無言のままで、手にしたバケツに海の水を汲んで適当な場所に置く。そしてロウソクを倒れないように砂に埋めてしっかりと立てた。
 それで準備は完了したのか、バケツの横に座りこんでしまうから、行も隣に並んだ。


 それから、辺りが完全に闇に沈んでしまうまで、二人は黙ったままで、そこに座り続けていた。
 二人を照らす光といったら、少し離れた場所にある小さな灯台や、道路の脇に立てられている照明灯、点在する建物の灯りくらいのものだった。
 本当の夜の闇の暗さとは、こんなものではないけれど、そんなものからもすっかり遠ざかってしまった身には、この闇ですら、ずいぶんと暗く感じられた。

 と、そこへ、仙石がロウソクに火を点ける。
 揺らめく炎に浮かび上がった仙石の横顔は、真っ直ぐに海を見つめていた。そのまなざしは驚くほどに真摯で、どこか近寄りがたくすらあった。行は、こんな仙石の顔を見たのは初めてだった。
(……オレはまだ、この人のことを何も知らない……)
 つきり、と胸のどこかが小さく痛んだ。

 今まで自分は仙石を知ろうとしてきただろうか?
 ちゃんと仙石を見てきただろうか?
 行は、仙石をもっと知りたくなった。
 どんな風に笑い、どんな風に泣くのか。まだ見ていない仙石の顔を知ることは、怖くもあったけれど、何を見せられたとしても、自分の気持ちは変わらない、と思った。
 ……どんな仙石でも愛せる、と。


「よし、そろそろ良いだろ。始めるぞ」
 いきなり立ち上がった仙石の声で、行は現実に引き戻される。
 花火を手に、子供のように目を輝かせている仙石の顔を見れば、つい先刻まで自分が考えていたことが恥ずかしくなってしまう。『愛』なんて単語を思い浮かべていた自分を殴ってやりたいほどだった。

 それを振り切るように、行は慌てて、手持ち花火を一本手に取った。先端に火をつけると、すぐに色とりどりの炎が吹き出す。
 パチパチとはぜるような音、立ち登る煙に、火薬の匂い。それらはずっと行にとっては、誰かの命を奪ったり、奪われたりすることに直結していた。こんなものを楽しむ日が来るなんて、思ってもみなかった。

 この中に使われている火薬の量はどのくらいか、などと考えてしまう自分に苦笑しながら、行は目の前で、刻一刻と色を変えていく花火の美しさもまた楽しんだ。
 隣では、さっそく仙石が吹き出し花火をセットしている。一メートルくらいの火花が上がる小規模なものだが、目の前で見ると、それだけでもかなりの迫力がある。
 激しい音と共に、金色の火花が吹き出した瞬間には、思わず二人で歓声を上げた。


「やっぱりドラゴン花火だよな」
 うんうん、とうなずき、仙石は一人満足気だった。行は何が『やっぱり』なのか良く分からなかったので、とりあえず相槌を打っておく。
 右手に、終わってしまった花火の燃えかすを握りしめて、ぼうっと立っていたら、すかさず仙石が新しい花火と取り替えた。古い方は水の入ったバケツ行きである。

「たくさんあるんだからな。どんどんやらないと無くならねえぞ」
「何も一晩で全部やることないだろ」
 そんな行の抗議も、仙石は全く聞いていないようで、新たな吹き出し花火をセットし始めている。その姿は良きお父さんといった所だ。
 その感想を正直に言うと、仙石は照れたように笑って答える。

「まぁ昔はな。佳織とも一緒にやったもんだよ」
「オレは子供扱いされているってことか?」
 決して嫌味ではなく、ただ思ったままを口にした行だったが、それを聞いた仙石は複雑な表情を浮かべる。後ろで盛大に吹き上がっている花火にも目もくれずに、じっとこちらを見つめていた。
 そしてボソリと言う。
「まだガキだろ、お前は」

「あんたから見れば、そうなんだろうな」
 行もここは素直に認めた。すると仙石は口の中で小さく、そうじゃねえよ、とつぶやいて、行の髪をくしゃりと掻き回した。
「子供でいろってことだ。俺の前ではな」
 そう言うと、仙石は背を向けてしまう。花火を片付けに行ったようなふりをしているが、実際はそうではないことは、行にも分かっていた。


 ……ああ、そうか。
 ふいに、行は仙石がこんなことを始めた理由に思い到った。
 それは一週間前のことだったろうか。
 それぞれの想いを打ち明けあって、いわゆる恋人同士という状態になってから、これまでに二人は何度か身体を重ねた。
 まだお互いに慣れていないこともあり、全てが上手く行くという訳にはいかなかったけれど、行にとっては大切な時間だ。

 その日も、仙石の腕に抱かれながら、行はぽつりぽつりと話を始めた。心の奥に散らばった欠片を一つずつ拾い集めるように。
 これまで自分が犯してきた罪のことも、血塗られている過去も、唾棄すべき記憶も何もかも、仙石には隠しておきたくなかったから。
 全てを知られた結果、見限られたとしても、それでも構わなかった。

 いつしか子供の頃の話になっていた。
 親に遊んでもらったことも、友達と遊んだこともほとんどなかったけれど、母との生活は苦しいばかりではなかった。
 母が自殺するまでは、行は母が居てくれることで十分に満たされていたのだし、その境遇を恨んだこともなかった。

 しかし、そのことを聞いた仙石は、ぽつりとこぼしたのである。
「……可哀想に」
 オレは可哀想じゃない。同情されることなんて、これっぽっちもない。
 行はそう反論したかったけれど、仙石の声があまりにもつらそうだったので、何も言うことは出来なかった……。


 それから、仙石はやたらと行を外に連れ出すようになった。
 つまりは楽しい思い出作りをしてくれているのだろうし、子供の頃に出来なかった分を取り戻させてくれているのだろう、と今になって、ようやく腑に落ちた。
 そんなことをしても、昔の思い出が入れ替わる訳でもないのだから、余計なお世話だ、と内心は思ったけれど。

「あんたが父親だったら、オレは幸せだったかな……」
 独り言のようにつぶやいた行に、仙石はくすっと笑った。
「バカ野郎。お前を本当に息子にする気はないからな」
 そう言うと、おもむろに行の身体を引き寄せて、ほんの触れる程度の口付けを落とす。

「……恋人だろ?」
「…………バカ……」
 行は頬を真っ赤に染めながらも、いたずらっぽく笑う仙石に、しっかりと一発お見舞いするのを忘れなかった。


         
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