【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『溢れ出てくるのはどろどろとした醜い感情』


「じゃあな、行。また来るからな」
「あ……、うん」
 仙石は名残惜しそうにしながらも、笑顔を浮かべて去ってゆく。行はその後ろ姿をぼんやりと見送った。
 そうしてドアが閉まった後も、行はそのまま玄関に立ち尽くしていた。電池が切れて止まってしまったロボットのように。

 いや、実際その通りだったのかもしれない。
 行にとって、生きていくための原動力は、仙石に他ならなかったのだから。
 行一人だけだったならば、まともな食事をすることも、睡眠を取ることも忘れてしまうだろう。
 それでも、仙石と再会するまで、死なない程度に生き続けてきたのは、絵を描きたいという気持ちがあったからだ。
『絵』と『仙石』だけが、行を現世に繋ぎ止めていた。

 その一方が今はもう居ない。
 つい先刻まで二人で使っていたカップもまだキッチンに残っているのに。仙石の存在していた痕跡だけを置き去りにして。

「また、来るから……、か」
 ようやく我に返った行は、ぽつりとつぶやいた。
 仙石はいつも次の約束をしない。仕事の都合によっては急に来られなくなる場合もあるから、行をがっかりさせないようにとの配慮なのだろう。

 やって来る時はいつも不意打ちで、連絡もなく家に押しかけてくる。そのことに特に不満はなかったけれど。
 好きな時間に起きて、好きなことをやって、好きな時間に眠る生活。
 何にも縛られずに、自由気ままな生活を送っている行には、唐突すぎる仙石の行動もかえって都合が良いくらいだと思っていたけれど。



 仙石が残していった気配をたどるようにして、行はふらりと寝室まで戻ってきた。
「あ……」
 行はその瞬間、言葉を失う。
 今までの物では小さすぎるからと言って、仙石が勝手に注文したダブルベッドの上には、乱れたシーツと無造作に丸められた毛布。仲良く並んだ二つの枕も何もかもが、行に昨夜のことを思い出させた。

 ほんの数時間前まで、仙石の腕が自分を抱きしめていた。
 温かなぬくもりに包まれる心地良さ、目を覚ました時に愛しい人がそこにいてくれる喜び、大きな手のひらで髪を撫でられる安心感、全てを仙石が与えてくれる。
 仙石だけが、くれるのだ。

 他の人間とは言葉を交わすことすらおぼつかない。ましてや、肌を触れ合わせることなど考えたくもなかった。
 けれど行はその幸福を知ってしまった。甘い蜜の味を覚えてしまったから、もう何も知らなかった頃の自分には戻れないだろう。


 ……もしも仙石が居なくなったら。
 それは想像するだけで恐ろしかった。
 仙石が与えてくれるはずの幸福をいくら求めても、他の人では代用出来ないのならば、全てを切り捨てるしかない。
 感情を無くし、心を無くし、”いそかぜ”で仙石と出会う前の自分に戻るしかないのだ。

「……怖い」
 行は無意識のうちにつぶやいていた。
 仙石を失うことが怖いのか、仙石を失った結果、自分が壊れてしまうことが怖いのか。理由は良く分からなかったけれど。
 そして、その恐怖は行に、もう一つの感情を芽生えさせていた。


 ……憎い。
 仙石を自分の元から引き離す全てのことが。
 それは仕事か、壁画か、それとも家族か。あるいは『しがらみ』という漠然とした何かかもしれないけれど。
 行自身はそうしたことに重要性を感じていないから、仙石が何もかもを捨てて、ここに留まってくれない理由を、根本的に理解出来ていなかった。
 どれほど激しく熱い夜を過ごしても、朝になったら家に帰ってしまう理由が、どうしても分からなかったのだ。

 ……憎い、と思った。
 見えない何かが自分から仙石を奪ってゆく。
 ……許せない、と思った。
 けれど、この想いをぶつけるべき相手は存在しない。一言で言い表せるような、単純なものではない。それは行にも分かっている。

 だから、恨みも憎しみも妬みも嫉みも、どろどろと行の胸の奥に溜まってゆくだけだった。少しずつ、でも確実に。
 この感情が、行自身をどす黒く浸食してゆき、いつか溢れ出てしまう日が来るのかもしれない。
 それは、これまで何かに執着することの無かった行が、初めて抱いた不安だった。


 誰かを愛するということは、自分が汚れていくことだ、と。
 それに気付いてしまっても、どうにも出来ない行なのだった……。



               おわり

ここまで読んで下さってありがとうございましたm(_ _)m

どうしても明るい話にはなりませんでした。
このタイトルでは仕方がないですね(苦笑)。

それに同じようなコンセプトの話は、
以前にもたくさん書いていると思います。
やっぱり好きなんですね、きっと。

人間らしい感情を持っていなかったからこそ、
行は純粋で真っ白な心だったと思うのです。

仙石さんを愛したことで、自分が醜くなってゆく。
それを自覚した時に、行は何を感じるのか。
それは私がずっと書きたいことのような気がします。

だから似たような話を何度も書いている訳ですが、
それできっちり表現出来たかどうかは微妙です(苦笑)。

2010.09.07

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